説 教

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   「キリストの名で呼ばれる サムエル記上12章22、ペトロの手紙一4章12~19
   「魂の拠り所」   列王記上19章19~20、ルカによる福音書9章57~62
   「福音を携えて  サムエル記上25章6、ルカによる福音書9章1~10
   「輝く明けの明星 イザヤ書11章1~10、ヨハネの黙示録22章16~21
   「命を与える一言 イザヤ書66章1~2、ルカによる福音書7章1~10
   「招かれたのは誰か詩編110編2~3、 ルカによる福音書5章27~32
   「闇を貫く光   ヨハネによる福音書1章1‐5,9‐14
   「力の源としての天」  ホセア書6章1~3、 フィリピの信徒への手紙3章17~4章11
   「前進する福音」  詩編46編、フィリピの信徒への手紙1章12~18
   「主に結ばれて歩もう」  エレミヤ書9章24~25、コロサイの信徒への手紙2章6~12
   「神におぶわれて」 イザヤ書46章1~4、ヨハネによる福音書14章6~7
   「にもかかわらず」 詩編143編1~2、ガラテヤの信徒への手紙2章11~21
   「神を知るためには」 創世記1章1~13、ヨハネによる福音書1章1~18
   「信じることの恵み」 申命記30章11~14、ローマの信徒への手紙10章5~13
   「あなたのためのクリスマス」イザヤ9章1~5、ルカによる福音書2章8~14
   「放蕩息子」          ルカによる福音書15章11~32
   「十字架につけられた死」  エゼキエル書33章10~11、ローマの信徒への手紙6章4~11  
   「天を裂いて降る神」   イザヤ書63章19~64章1、マルコによる福音書1章9~11
   「塵の上に立たれる神」   ヨブ記19章23~27、ローマの信徒への手紙8章32~39
   「わたしたちは栄光を見た」   イザヤ書8章23~9章6、ヨハネによる福音書1章14~18
   「私のようになってください」   イザヤ書42章6~7、使徒言行録26章19~32
    「私たちの後ろ盾」   列王記上19章18、使徒言行録18章1~11
   「神の不思議な計画」   アモス書3:7~8、使徒言行録9章19b~31
   「大胆に語れ」      詩編146:5~6、使徒言行録4章23~31
   「心燃やす喜び」     エレミヤ書31:31~33、ルカによる福音書24章13~32
    「豊かにされたクリスマス」 イザヤ書9章5、コリントの信徒への手紙二8章8~11 
    「隣人を愛せますか」   レビ19:17~18、ルカによる福音書10章25~37
   「十字架の背負い方」 詩編55:23、マタイによる福音書16:21-28
   「助け主が来る」     ヨエル書2章27~3章1、ヨハネによる福音書16章4~15
   「人生の起点」       創世記39章21~23、ガラテヤの信徒への手紙4章8~11節
   「神に知られている私」 創世記39章21~23、ガラテヤの信徒への手紙4章8~11節
   「主の道の歩き方」   士師記2章6~23節、コリント一 10章13節
   「主を呼ぶ声」       マラキ書3章19~20節、マタイによる福音書3章1~12節
   「発見」           ルカによる福音書19章1~10節
   「永遠の命の水」     イザヤ49章7~10節、ヨハネによる福音書4章1~15節




 「キリストの名で呼ばれる 
  サムエル記上12章22 ペトロの手紙一4章12~19

 「キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」
                                                            (ペトロの手紙一4章16)



☆「キリスト」と呼ばれ
 私は以前、「キリスト新聞」で記者をしていました。新聞記者といっても零細ないわゆる業界紙の記者ですから、取材をして原稿を書き、紙面に割り付けというレイアウトをし、ゲラを校正し、さらに記事に関連するところに新聞を発送することまで、何でもやるのです。したがって記者の時代に毎週1日は、印刷される前の新聞の校正をするために、印刷を委託していた神奈川新聞というところに行くのです。神奈川新聞に入ると、キリスト新聞用の校正室があり、刷り上がる前のゲラがおかれていて、赤ペンで校正をして記事の最終チェックをします。その校正室には、ここがキリスト新聞の校正室だということあらわすために名札が着けられていました。名札には「キリスト」と表示がされていました。そして、私たちが呼ばれるときにも、「キリストさん」とか、「おい、キリスト!」などと私たちは呼ばれるわけです。私はかつて、「キリスト」と呼ばれていたわけです!。
 こんな経験を持つ方は少なくないと思います。周りの人から、私たちが「クリスチャン」と呼ばれることは、私たちの誰もが「キリスト」と呼ばれているということです。初代教会の人たちが、「クリスチャン」と呼ばれる「キリスト者」として呼ばれたのは、何もそう呼んでほしいと言ったから、周りの人たちがそう呼んだのではありません。いつも、「キリスト」「キリスト」と主の名を呼んでいたから、「あいつらはキリストもんだ」というようなあざけりを周りの人から受けていたのです。クリスチャン、キリスト者という呼ばれ方はバカにされたような侮蔑的な呼ばれ方だったのです。
 しかし、むしろその呼ばれ方を自分たちの呼び名として初代教会のキリスト者は受け入れたのです。それは、クリスチャン、キリスト者であるのは、キリストに在ってキリストと結ばれていることを本当によく示しているからです。

☆自由に生きる
 初代教会のキリスト者は周りの人たちから、どう思われていたかが、今日呼んだ御言葉の直前の4節にはこう書かれています。それは、「もはやあなたがたが、そのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです」ということです。
 昔も今も変わらないことです。だいたい私たちは、信仰を持ったことによって、そうして、神さまに従って生きていこうとすると周りの人からこんな非難を受けることがあります。「クリスチャンになってから、お前は付き合いが悪い!」「クリスチャンなんて堅苦しい!」「クリスチャンになるといろんなことを我慢しなければならないのだろう。自由がない!」などと非難された経験を持つ方がいるだろうと思います。これは皆誤解なのですが、信仰生活とは「これをしてはいけない」「あれもしてはいけない」という自由のない堅苦しい生活ではありません。むしろ、世間体とか、しきたりとかが第一のものでなくなるのですから、かえって自由な生活なのです。しかし、神さまに従って生きようとするとこんな嘲りは、ある程度は覚悟しなければならないのかも知れません。
 ペトロは、信仰を持った者の生活は、過去に心引かれる生活ではないと言うのです。それは、将来に心を向ける生活です。

☆“カリスマ”クリスチャン
 だれもが洗礼を受けるときに、キリスト者になるとどういう生活がおとずれるのか、気になるところです。ペトロは、キリスト者として歩むとき、予想を超えた仕方で、「あなたがたを試みるために身に降りかかる火のような試錬」に出会うと語ります。この手紙が書かれたころ、キリストの者(もの)として生きることは、とても簡単なことではなかったのです。しかし、ペトロは、キリスト者らしく生きることが難しい中で、あえて、キリスト者らしく生活しなさい、と語りかけます。
 そして、今日の御言葉の直前10節には「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」と記されています。私たちは、「それぞれ、賜物を授かっている」のです。一人ひとりに異なる賜物(カリスマ)が与えられているのです。それぞれが異なった賜物を、さまざまな恵みとして与えられているのです。「さまざまな恵み」なのですから、神さまの恵みが、一つとして全く同じではないということです。そして、あなたがたは神さまの恵みの所有者ではなく、管理人だという気持ちが込められています。自分の賜物も管理するだけですから、他人のものも決して所有することはないのです。管理人のつとめはむしろ、その賜物を他人のために役立てるようにすることです。他人を支配したり所有したりするのではなく、神さまからお互いに管理がゆだねられている賜物をもって仕えあうのです。

☆キリストと結ばれ
 試練にあう中で、かえって神さまから賜物を与えられていることが、豊かな恵みが与えられていることがよく見えてくるのではないでしょうか。私たちは、キリストのものとされたものらしく生きることで苦しみにあうことがあるかも知れません。しかし、私たちは、キリストと呼ばれるほどに主イエス・キリストと一体化しているのです。主の救いの中に私たちは入れられているのです。だから、主に従う者として生き続ければ良いのです。   (2017年3月19日主日礼拝説教より)

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 「魂の拠り所」
 列王記上19章19~20 ルカによる福音書9章57~62

「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(ルカによる福音書9章58)



☆天の都への招き
 イエスさまは私たちに、ただまっすぐに神の国に顔を向けることを求めます。なぜならば、神の国こそ、天の都こそが私たちが帰るべき故郷であり、私たちにとって本当の安息の場所だからです。神さまは私たちを天の都へと招いてくださいます。
 ところで、エゼキエル書17章23には「あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる」という言い方で、神の国の様子が描かれています。神の国は鳥や獣が巣を作る所なのです。そしてイエスさまは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある」と私たちに空の鳥を見つめさせ、狐に目を向けさせるのです。狐も鳥も、他の動物たちも皆、自分のねぐらを持っているのです。それは、神さまがあらゆる動物の命を養い、守り、支えていてくださるからです。

☆人の子には枕する所もない
 「だが、人の子には枕する所もない」のです。狐も鳥も、他の動物たちも皆、自分のねぐらを持っているのに、「人の子」つまり、人となられた神の子イエス・キリストには、安心して眠る場所がないのです。永遠の安息が約束されている天の国の主人であるイエスさまが、この世においては、安息の場所をもたないのです。なぜでしょうか。
 それは、私たち自身に「枕する所」がないからです。私たち人間は、何を食べようか何を飲もうか何を着ようかと思い悩んでいるのです。そんな思い悩み、不安、心配によって、安心して眠ることができない、それが「枕する所もない」私たち人間の姿なのです。
 それならばなぜ、私たち人間はそのように思い悩み、「枕する所もない」状態に陥ってしまうのでしょうか。それは、天の父なる神さまが養ってくださり、守ってくださることを見失っているからです。神さまから遣わされた救い主であるイエスさまが、天の父の愛を見失って思いわずらいに陥り、「枕する所」もなくなっている私たちのところに来てくださり、その私たちの思い悩み、不安、苦しみを背負ってくださったということです。だから、永遠の安息が約束されている天の国の主人であるイエスさまが、この世においては、安息の場所をもたないのです。

☆主と共に歩む
 したがってイエスさまに従っていくとは、このイエスさまと共に歩むことです。このイエスさまによって、天の父なる神さまの愛と恵み、養いと導きの下で生きていくことです。イエスさまが与えてくださる救いは、人間の努力とは別のものです。自分で自分を向上させ、高めることなどできない、良い者となることができない、そういう私たちのところに、神さまの独り子であられるイエスさまが来てくださり、私たちの罪を背負ってくださり、十字架にかかって死んでくださった、そこに、神さまの父としての愛があるのです。その愛を受けて、天の父なる神さまが私たちを子としてくださっていることを信じる、それがイエスさまの与えてくださる救いであり、私たちの信仰です。イエスさまに従うとは、この信仰に生きることなのです。そこにこそ、私たちの本当の命がある。思い悩みから解放されて、神さまの養いの下で、安心して眠ることができる歩みがあるのです。

☆エリシャに使命を託したように
 一昨日、東京神学大学の卒業式で、今井裕子神学生をはじめとする12人が卒業し、伝道へと遣わされていきました。芳賀力学長は、エリヤがエリシャに外套を投げかけて使命を託したように、あなたたちに伝道の使命を託すのだ、と卒業生に語りかけたのです。
 エリヤによって召し出されたとき、エリシャは父母への暇乞いを願い、エリヤはそれを許しました。ところが、イエスさまはそれを許しません。それは、畑を耕す鋤はよそ見をすると畝筋が曲がってしまうからです。そのようにイエスさまにしっかりと結びつき、イエスさまが告げ知らせてくださる神の国にまっすぐ目を向ける者こそ神の国にふさわしい、と言われるのです。もちろん、イエスさまは、「神の国と家族を天秤にかけて、どちらが大事なのか選びなさい」などと、おっしゃっているのではありません。
私たちは神の国、永遠の命を目指しながら、この世の人生を旅しています。本当の意味での安住の場所、魂の安息を得る所は神の国以外にはないからです。だからこそ、ただまっすぐに神の国へ顔を向けて歩むことができるのです。私たちに与えられた地上の生活を精一杯生きながら、神の国へと伴ってくださるイエスさまを見つめ続けることが、私たちにはできるのです。命の主イエス・キリストに従うことこそが、私たちにとって希望であり慰めであり、真の安息だからです。  (2017年3月12日主日礼拝説教より)

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「福音を携えて」
    サムエル記上25章6、ルカによる福音書9章1~10

 「神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。『旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない』」ルカによる福音書9章2~3


☆主の召し
 今、主イエス・キリストは、弟子たちを伝道へと遣わそうとします。主は、十二人の弟子たちを選んだときと同じように弟子たちをまず呼び寄せます。それから、伝道へと派遣します。弟子たちは、弟子になろうと思って自分たちから弟子になったのではありません。また、自分から伝道に行きたいと言い出して、伝道に行くのでもありません。すべては、主が召し出されたから弟子となり、主によって伝道へと派遣されるのです。
この時、優れた能力を持った者が弟子として召され、伝道へと遣わされるのではありません。弟子たちの顔ぶれを見たら分かります。魚を網で掬い上げることは上手かもしれないけれど、人間を救うことなど出来ないペトロやアンデレ、ヤコブ、ヨハネといった漁師たちがいます。人々の身ぐるみ剥いでお金を巻き上げることは出来ても、人々を幸せに包むことなど出来ない徴税人マタイがいます。律法を力ずくで守らせることに熱心であっても、人々の心にやさしく配慮することなどきっと苦手な熱心党と呼ばれるシモン、イスカリオテのユダ、ヤコブ、ヨハネなどの人たちがいます。トマスのように理屈をこねて疑うことは出来ても、人々に信じさせることは苦手な人がいます。この人こそふさわしい伝道者として選ばれるべくして選ばれた弟子など一人もいません。つまり、何も出来ない者が弟子として使徒として立てられているのです。大切なのは、自分にできるかどうかではなくて、主に召されているかどうかです。召されているという確信があれば、召してくださったお方にどこまでも従うことができるのです。

☆無謀な旅支度

 しかし、いよいよ主によって権威を与えられ、実際に伝道へと赴こうとしているのに、主は旅のために何も持って行くなとおっしゃいます。ふつうの旅に欠かせない杖も、施しを請うための袋も、そして食事さえも持っていくことも禁じられるのです。無謀だと言ってもよい簡単な旅支度です。主のもとを離れて、旅をしなければならないのに、こんな心もとない旅支度で大丈夫なのでしょうか。お金も食べ物もいらないのでしょうか。「みんなが喜んで福音を受け入れるから、何も持たなくても安心なのだ」とでも言うのでしょうか。
 ところが、実際はそうではないのです。福音をみんなが受け入れるわけではありません。弟子たちを受け入れない者たちがいることを、神の国の福音を拒む者は裁かれることを、主は予告しているのですから、なおさら、不安になってくるような旅支度です。
 福音は、「信じなくてもかまわないけれども、信じた方が信じないよりはいい」というような、曖昧なものではありません。主を受け入れるかどうかで、はっきりと分かれるのです。だからこそ、弟子たちの力でどうにかして信じさせようと、福音の内容を薄めたり歪めたりしてはいけないのです。伝道の実りがないからといって、落ち込む必要もないのです。主は、弟子たちの責任を問われません。いっさいを主に委ねて、次の福音を必要としているところへ行け、と主はおっしゃるのです。
 だから、伝道へと派遣する弟子たちに対して、「どうにかして福音を受け入れてもらうようにしなさい」とは、決して主はおっしゃいません。どこまでも弟子たちは受け身です。主の語られた通りに伝えるのです。

☆小さなキリスト
 弟子たちに必要なのは、主イエス・キリストの権威だけです。主だけが拠り所です。旅に必要な安心さえも、主に委ねるのです。そうして弟子たちはひたすら、主の福音を持ち運ぶ足となるのです。
 そしてまた弟子たちは、伝道すればするほど、これは自分たちの働きではない、主の働きだということを確信し、さらに主の御言葉に自分をゆだねていくことができるのです。
宗教改革者マルティン・ルターは、主を信じて主に従うキリスト者は皆、主のお姿を写す「小さなキリスト」になるのだと言いました。そして少しずつ主のお姿に似てくるものになるのです。

☆確かな旅支度
 主イエス・キリストは、私たち一人一人の名を呼んで、ご自身のそばに召してくださいます。そして私たちをキリストのものとしてくださいます。主は、召し出された私たちを主の代わりにそれぞれの場へと遣わしてくださいます。私たちが携えていくのは、神の国の福音です。主ご自身です。ですから、私たちは、主と共にいることができるのです。主の御業に参加させてくださる主にすべてお委ねすればいいのです。それが私たちに出来る唯一の伝道です。私たちは、主によって救われたというこの喜びのおとずれを、既に携えているのです。
                                                  (2017年1月22日 主日礼拝説教より)
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  「輝く明けの明星」 
  イザヤ書11章1~10、ヨハネの黙示録22章16~21
  「わたし、イエスは使いを遣わし、諸教会のために以上のことをあなたがたに証しした。わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、
  輝く明けの明星である」ヨハネの黙示録22章16



☆聖書は希望の書
「初めに、神は天地を創造された」と、神が愛をもって天地を創造されたことから語り始めた聖書は、世の終わりを待つ言葉によって閉じられています。しかし、世の終わりは、絶望ではなく希望だと記されています。既に来られ、今来て下さっているイエスさまが、「然り、わたしはすぐに来る」と、私たちに約束してくださっています。今は、おぼろげに鏡に映すように見ている神の国が、主が来られるその時には私たちにもはっきりと見えるのです。その時、私たちは、完全に清められてイエスさまの前に立っているのです。だから、世の終わりは希望なのです。

☆紫の期節

 教会暦では、アドベント第一主日から一年が始まりますが、このアドベントの期節は新年のおめでたい華やかな雰囲気とは少し違います。この期節の色は、紫だからです。
 かつて、紫色は高級品の象徴でした。紫色の染料が高価だったために、王や金持ち以外に紫の服を着ることはなかったのです。しかし、ある時を境にして、紫色は、悔い改めの色となりました。十字架につけられようとするイエスさまが兵隊たちから王の象徴である紫の衣を着せられ辱められて以来、紫色は悔い改めを象徴する色となったのです。イエスさまが十字架の上で死ななければならないほどの、私たちの世界の闇の現実を象徴するのが紫色です。しかし、私たちは私たちの闇の、つまり罪の現実に絶望する必要はないのです。それは、このアドベントの時が、イエスさまが来られる時を待ち望む時、希望の訪れを待つ時だからです。

☆教会の祈り

ヨハネの黙示録は、教会が迫害される中で記されました。教会はその時、この世に絶望したわけでも、この世を糾弾し、革命を起こそうといきり立っていたわけでもありません。教会は迫害を受けてもなお、この世を愛したのです。なぜならば、この世を神が愛してくださっているからです。滅ぼさなければならないほど罪に覆い尽くされているこの世を、神が愛して、イエス・キリストを与えてくださったことを知っているからです。
 神が、この世を救おうとしているから、教会は自分たちを迫害するこの世のために「“霊”と花嫁とが言う。『来てください』」と、執り成しの祈りをしたのです。花嫁とは、花婿であるイエスさまが来てくださることを待ち望む教会のことです。聖霊も教会も、「主イエスよ、来てください」とイエスさまが再び来られる時を祈るのです。
イエスさまが来られたら、それで終わりではありません。永遠の時がそこから始まるのです。滅びに向かう時ではなく、永遠の命に満ちあふれる時が始まるのです。だから教会は、「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」と、この世に対して勧めるのです。永遠の命の水を与えるお方が、来られるのだから、「主よ、来てください」と、祈ることを勧めるのです。

☆明けの明星

 イエスさまは御自分のことを「輝く明けの明星」とおっしゃっています。星が輝くのは夜です。つまり、イエスさまが来られる世界は夜です。そして、イエスさまが再び来られる時を待ち望む今も夜です。「明けの明星」は朝が来ること、闇が消え去ることのしるしです。ですから、イエスさまが来られるのですから、この世の闇が消え去る時が近づいているのです。そして、もう輝く朝が明け初めているのです。あのクリスマスの夜に、世界中を覆い尽くした闇の中に「明けの明星」であるイエス・キリストは来られたのです。もう光の到来を疑うことはありません。確かな神の約束として、光であるイエス・キリストが来られたのです。闇の中でもがき苦しんでいた私たちに光が差し込んだのです。クリスマスの夜、私たちに光を与えたイエスさまは、もうすぐ来てくださいます。絶望の闇ではなく、希望の朝を私たちに与えるために、イエスさまはまた来てくださるのです。
世界は夜で、まだ暗いのです。だから、私たちには辛いことや悲しいことがあるでしょう。しかし、私たちは知っています。救い主がお生まれになったことです。光でいます神の御子が、クリスマスに暗闇の中に入って来られたことを知っています。たとえまだ私たちの周りは闇に覆われていても、そこには明けの明星が輝いています。光あふれる喜びの朝は近いのです。
 だから、ローソクが一本ずつ灯されていく時、確実にイエスさまが来られる時が近づいていることを私たちは知るのです。この世が、輝く明けの明星の光によって照らされ、希望の朝を迎えることを、私たちは喜びをもって、待つことが出来るのです。 (2016年11月27日、主日礼拝より)
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「命を与える一言」 
 イザヤ書66章1~2節、ルカによる福音書7章1~10節
「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」ルカによる福音書7章7

  ☆一言で十分
  「たった一言おっしゃってくださればよいのです。主よ、あなたの御言葉を聞かせてください。それで十分です」。これは、なんとささやかな願いでしょうか。なんと慎ましい要求でしょうか。しかし、なんと重みのある大胆な要求でしょうか。「慰めのない百万の言葉ではなく、真実の権威ある言葉、生ける主の言葉を一つ、ただ一言ください。そのほかには何もいりません」。これこそ、信仰です。イエスさまがお褒めになった信仰なのです。
 
 ☆資格がなくても
 百人隊長は、イエスさまに来てほしい、そして部下を癒してほしい、と願ってユダヤ人の長老たちを使いに出しました。ところが、いざ願い通りにイエスさまが来たのに、イエスさまに来ないでほしいと拒むのです。それは、「資格がない」からです。イエスさまを迎え入れる資格は、自分にはないと百人隊長は言うのです。なぜならば、百人隊長は神さまの選びから漏れている汚れた罪人である異邦人だから、神さまの恵みにあずかる資格はない。そんな自分が神さまの一人子を迎え入れることは出来ない。自分にはそんな価値はないのだ。それが百人隊長の言い分です。
 しかし、神さまの選びからたとえ漏れているとしても、神さまの恵みを受ける資格がないとしても、自分は部下をなんとしても助けたい。愛する部下を助けるには、神さまにすがるしかない。だから百人隊長は第二の使いをイエスさまのもとに遣わしてこう言うのです。
 「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」
 なぜ自分のようなものの命令を聞いて兵隊たちが命をかけて戦ってくれるのか、部下は忠実に従ってくれるのか。自分のようなものにさえ権威が与えられている、自分のような資格なき者の言葉にも権威が与えられている、それだからこそ、真実の権威をもっている方に訴えるのです。「神さまの前に出る資格のないこのような自分でさえも、言葉一つによって部下の兵隊たちを従わせる権威が与えられている。それならば、真実なお方である神さまならば、真の権威が与えられている主から言葉を一言でもいただけるならば、それでいいのです。一言お言葉をいただけるならば、十分なのです」、これが百人隊長の思いなのです。
 だから、百人隊長は遠慮しているのではありません。謙遜して言っているのでもないのです。そうではなくて、自分には資格はない。そんな資格のない者にさえ、この世で権威が与えられている。それならば、真実の権威の源ならば、すべてをなしてくださる。この真実のお方にすべてを信頼してゆだねたのです。

 ☆これほどの信仰!
 イエスさまが「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とまで感心される信仰とは、いったいどんな信仰なのでしょうか。
 それは自分自身にではなく、神さまに信頼を置く信仰です。自分自身は、神さまの御前に近づくことが出来ない罪人である、ということを自覚しながら、だからこそ神さまの言葉に寄りすがる信仰です。愛する部下の死に直面して、百人隊長は、本当に頼るべきお方を見つけ出し、本当に頼るべきお方の言葉を求めたのです。
 信仰とは、本当に頼るべき主イエス・キリストをどれほど信じられるか、ということです。その意味では、この百人隊長は、イエスさまのことを100%信じ、イエスさまにすべてを委ねることが出来たのです。この百人隊長の信仰に対してイエスさまは、「これほどの信仰」と言われたのです。
 聖書の言葉を隅から隅まで研究し尽くし、理解し尽くしたからと言って、それによって人間が救われるわけではありません。そうではなくて、聖書の中で一言でもいい、その言葉を通して主イエス・キリストを発見し、その一言に委ねきった時に、それこそが信仰と言えるのです。人間を生かすのは、人間自身の力ではありません。生ける神さまの言葉、主イエス・キリストの御言葉に委ねきった時に人間は命を与えられるのです。

 ☆主の言葉が先だって
 この物語はこのように締めくくられております。「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」。使いに行った人たちが、その言葉を伝えたら、そこで元気になったというのではないのです。帰ってみると、その言葉を、主イエスの言葉を伝えるまでもなく、すでに元気になっていた。イエスさまの言葉が百人隊長の家を先に訪れていたのです。百人隊長はこの時イエスさまに会っていないようです。しかし、イエスさまの言葉は百人隊長の下に、百人隊長の部下の元に届いていたのです。そして今また主イエス・キリストの言葉が私たち一人ひとりに訪れているのです。 (2016年7月24日 主日礼拝より)
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「招かれたのは誰か」
詩編110編2~3 ルカによる福音書5章27~32節 
  「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」ルカによる福音書53132

 


☆罪人を招く主
 イエス・キリストに招かれるために、健康である必要はないとイエスさまはおっしゃいます。義人・正しい人である必要はないとおっしゃるのです。イエス・キリストの招きは、何か功績を積んで、資格を得た者を招くものではありません。聖められた者が初めて招かれるものでもありません。そうではなく、イエスさまは、従うことができない者を招いてくださるお方です。資格もない、能力もない、力もない、そして、正しくない、そんなだめな人間をイエスさまは招いてくださいます。そして、招いた者をキリストのものとしてくださっているのです。
 この主の食卓は、そこにイエス・キリストがいてくださって、そこに大勢の罪人を招くという仕方で実現するのです。それもイエスさまご自身が出むいてくださって、一人一人の罪人を招きだされるという仕方で実現するものです。キリストによってしか癒されない罪人が主の食卓を囲むのです。主イエス・キリストは、罪ある者を義とし、死んでいた者を生かし、失われた者を見いだすために、汚れている者を洗って清めるために来られたのです。そうして、イエスさまは主の食卓へと招いてくださるのです。神の国の宴へとわたしたちを召すために来られました。イエスさまは、罪の中に落ち込んで、自分の力ではどうすることもできずにいる者を立ち上がらせてくださるお方です。従うことのできない者も、無条件に従わせてくださるお方です。

☆「わたしに従いなさい」
 収税所の前で立ち止まったイエスさまは、罪の世界にどっぷりと座り込んでいるレビに眼差しを注がれます。そして、声をかけられるのです。レビの答えの言葉は何も記されていません。聖書は、「わたしに従いなさい」とイエスさまに言われたレビが、「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とだけ記しています。
 「立ち上がる」という言葉は、聖書が書かれたもとの言葉では「復活」と同じ字が使われています。まさしく、死んでいたのも同然のレビが、イエスさまによって見つけ出されて、御言葉によって新しい命を与えられるのです。
 そして、レビはすぐに従います。イエスさまに従うことは、レビの場合は、徴税人という仕事を捨てることなのです。漁師に戻ることができたペトロたちとは違って、収税所から離れた者は、もう徴税人はできないのです。たとえユダヤの人々から後ろ指を指され、蔑まれていたとしても、徴税人をしていれば金儲けができるのです。だから徴税人という仕事を捨てるということは、大変な決断が必要です。しかし、レビは素直にイエスさまに従うのです。
 イエスさまの御言葉は、心を固く閉ざしているレビの、丸ごとすべてを開く力ある言葉でした。その言葉によってレビは生かされるのです。ユダヤの社会からは罪人として死刑宣告が出されていたレビが、よみがえるのです。罪の中に落ち込んで、どうにもはいだせないでいる者をイエスさまは捜しだし、立ち上がらせ、従わせてくださるのです。新しい命に生きる人生へと歩み出されるのです。

☆主の食卓
 新しい命を与えられたレビが盛大な宴会を開きます。罪の深みから救い出され、新しい命に生きることが出来た喜びの宴です。御言葉は、「徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた」と記しています。食卓についていた徴税人・罪人はレビだけではありません。多くの徴税人・罪人がいたのだ、と記します。レビはこの喜びの宴に自分たちと同じ徴税人・罪人を招いたのです。自分と同じように罪の深みにある人たちに新しい命に生きる喜びを味わってもらいたいから、招いたのです。
 ところが、招いているはずのレビが、実はこの宴会に招かれているのです。この宴を開き、皆を招いているのはイエスさまなのです。この喜びの宴は、イエス・キリストを中心にして、イエスさまによって召し出された弟子たちやレビたちが囲んでいる食卓です。宴会を開いたレビでさえも、この食卓には招かれるた者の一人なのです。このような罪人たちをも同じ食卓に、イエスさまは招いてくださるのです。

☆信じて従う
 だから、主イエス・キリストの招きは救いなのです。救いようのない者を救う言葉です。私たちは、「わたしに従いなさい」と言ってくださるイエスさまの言葉に従えばいいのです。だから私たちは、ふさわしくない者をふさわしい者に変えていただけることを信じて自分を差し出せばいいのです。「わたしに従いなさい」と言われたイエスさまの言葉を聞いて立ちあがればいいのです。 (2016年5月1日 主日礼拝より)

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闇を貫く光」
   ヨハネによる福音書115節,914

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ヨハネによる福音書1章14節


 ☆光を求めながらも
 闇の中を破るように光が射し込んだときに、人間は、本当に安心できます。光に照らし出されて、自分を確認し、行く道を確認しているといってもいいでしょう。
 ですから、人間は光を求め続けました。そして光を作り出すことに成功しました。いくら闇が周囲を覆っていても、家の中は照明器具が昼と変わらないくらいに明々と照らします。外も街灯や、ネオンサインが明るくします。スイッチ一つで明るくなるのですから、もう暗闇をおそれる必要はなくなったのでしょうか。
 光は、光を受けるものを照らし輝かせますが、どうしても光を受けたものの後ろに影を作ってしまいます。光が明るければ明るいほど、影は暗く濃いのです。そして光は、影を照らすことはできません。光はすべてのものを照らし尽くすことはできないのです。まして、人間の心の暗闇まで照らす光は人間には作れません。
 人間は、やはり暗闇の中から抜け出すことも、真に暗闇を明るくすることもできないのでしょうか。
 今から2015年前の世界もそんな暗闇が満ちていました。神さまから約束を与えられたイスラエルは、さらに深く暗闇に覆われていたのです。イスラエルは、外国から何度も攻められ、長い間征服され続けていました。2015年前はローマ帝国に支配され、誇りを奪われていたのです。
 ヨセフと身重のマリアが、ベツレヘムまで120キロもの旅をしなければならなかったのは、人口調査のためだったとルカによる福音書には書かれています。人口調査は、戦争に備えて兵隊の頭数をそろえるため、さらに税金の徴収を徹底するために行われます。ですから、人々はまた戦争にかり出されるのではないか、さらに重い税金がローマから取られるのではないかと不安な思いでいました。約束の民イスラエルも深い闇を抱えていたのです。

 ☆言が闇の中に
 そんなときに、クリスマスが訪れたのです。ヨハネは、マタイやルカのようにイエスさまの誕生をくわしくは記しません。イエスさまがどういうお方であるかを、象徴的なことばで記すのです。
 イエスさまは言(ことば)だと、ヨハネは言います。そしてこの言は神であり、すべてのものを創造された方であり、光であると語ります。それは、人を照らす光です。暗闇の中に輝き続ける光です。暗闇がどんなに深く暗くても、勝つことができない光だとも言っています。
 この光は、いろんな光がある中で、すべての人を照らすことのできるただ一つの真実の光が、クリスマスの夜この世に来てくださったのです。
 神の独り子であり、光であるイエス・キリストが、クリスマスの夜、この世に来て、人となって私たちとともに住んでくださった。、それが、クリスマスの夜の出来事です。

 ☆言は肉となって
 それではなぜ、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」のでしょうか。それは「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」からでした。この世界も人間も神さまの御心によって、良いものとして創造されたのに、神の御心に背いて闇の中に自ら入り込んでしまったからでした。
 にもかかわらず、神さまは、この世を愛し、人間を愛してくださいました。すべてを良いものとしてこの世を創造された神さまの意志は、どんなに闇が世界を覆い尽くしても、少しも変わることはありません。
 ヨハネは、この世を本当に愛し続けられている神さまの御心をこのように語っています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)
 闇の中で、もがき苦しんでいる者を救わずにはいられない、神さまの愛の御心が、クリスマスの夜、本当に示されるのです。
 すべての人を照らす光
 「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
 ベツレヘムの馬小屋の飼葉桶に寝かされている幼子イエスの顔には、神さまの愛が示されています。人間をどうしても救おうとされる愛です。この世に満ちている暗闇を消し去ってしまうほどの神さまの御心があふれている光が、幼子の顔にはあふれているのです。
 クリスマスの夜、暗闇を破って輝きわたった光はこの世を愛しぬかれた神さまの栄光です。すべての人を照らす光です。クリスマスの喜びは、すべての人に与えられる喜びです。ですから、クリスマスはまことの喜びなのです。(2015年12月24日、燭火礼拝説教より)

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  「力の源としての天」
  ホセア書6章1~3、 フィリピの信徒への手紙3章17~4章1

 「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」
フィリピの信徒への手紙3章20

☆キリストに倣う
 キリストに従う、キリストに倣うとはどのようにしたらよいのか、決して簡単ではありません。まして、フィリピ教会の人たちは、イエスさまを直接知らないのです。そのような中で、キリストに倣えと言われてもどうしたら良いのかなかなか分からなかったのでしょう。
だからこそパウロは、自分に倣え、と言ったのです。具体的に、実際的に、キリストに倣って生きるとはどういうことかを知るために、一人の身近にいる信仰者からキリストにならうことを教えられる。そのようにして一人の信仰者を模範とすることによって、ついには、キリストにならって生きることがその人の身に付いてくる。信仰の継承ということはそういうことでもあるのです。
もちろん私たちは、パウロとは違います。まして、キリストにならうということはそう簡単にできるものではありません。しかし、私たちは主イエス・キリストによって救われたのです。キリストに救われて、生かされているのです。キリストによって、救われ、生かされているのだから、キリストに倣う者になるはずだとパウロは言っています。キリストによって生きていないで、ただお手本にするというのではないのです。今はキリストに捕らえられてキリストが自分の力になっているのだから、キリストに倣う者になれるのです。

☆わたしの本国は天に
 「わたしたちの本国(口語訳聖書では『国籍』)は天にある」
 この御言が私たちにきょう与えられた御言です。私たちの国籍は天にあるということは、私たちは天に属する者だということです。それは私たちの力の拠り所が天にあるのだということです。
 パウロはおそらく、エフェソの牢屋に捕らえられながらフィリピの教会のキリスト者にこの手紙を書いています。フィリピという町はローマの植民地として栄えた町です。人口の半分はローマ人であり、半分はマケドニヤ人、そして少数のユダヤ人という構成です。つまり、その当時世界を支配していたローマの市民権を持つということが、大きな力を持っていたのです。どこの国籍を持っているかが、私たちが想像する以上に、人の生涯において大きな位置を占めているのです。そしてパウロは、おそらく父親の功績によってローマ帝国の市民権を持っていましたから、イスラエルの法律ではパウロを裁くことができないなど、ローマ市民としての特権を持つことができました。
 そのパウロが、「わたしたちの本国は天にある」と語るのです。私は、ユダヤ人としての誇りを持っている、ローマ市民としての特権も与えられている、しかし私の本国・国籍は天にある、と言うのです。
 天にあるのですから、神さまのおられるところです。イエスさまは、天に昇られることを語る別れの説教の中で、こうおっしゃいました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14:2-3)と。つまり、私たちがイエスさまによって迎えられる父なる神さまの家が天です。
 だから、「わたしたちの本国は天にある」ということは、私たちの力の拠り所が、天にあるということです。したがって、天に国籍があることを知り、それを受け入れ、確信することは、死に直面している人だけに必要な信仰の真理ではありません。死とは、全く関係ないように思える若者や、幼子にとっても、私たちの国籍が天にあるということを知り、確信することは、その人の生き方を決めることとなるのです。国籍が天にあることを知ることによって、その天にふさわしい地上の生を、生活を、生きようとします。そしてまた、地上の生を生きる力がわいてくるのです。
だから、私たちの本国・国籍は、天にあるのですから、地上における生活を、パウロのようにキリストにならって確かに歩くことができるのです。そして、キリストにあって堅く立つことができるのです。「わたしたちの本国は天にある」、これこそ、私たちの力の源です。

☆天の兄弟姉妹に倣って
 本日は「聖徒の日」です。11月の第1日曜日に世界中の教会が「聖徒の日」として礼拝をささげます。「聖徒の日」は、既に天に召された兄弟姉妹を覚えて礼拝する日です。私たちは、確信を持って天へと召された兄弟姉妹を覚えることによって、私たちが向かっている天をはっきりと見据えることができます。    (2015年11月1日、聖徒の日主日礼拝説教より)
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「前進する福音」
  詩編46編、フィリピの信徒への手紙1章12~18

「口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」 フィリピの信徒への手紙1章18


☆パウロの喜び
 パウロの喜びの思いは、キリストの福音が告げ知らされること、そのことだけに集中しています。このときパウロは牢獄に捕らえられていました。しかし、自分が牢獄にあっても福音が前進していることを知ることができたから、パウロは喜べました。福音は、パウロが牢獄に捕らえられたことによってかえって前進したのです。
 キリストを宣べ伝えたことで、パウロは捕らえられました。そして、パウロが捕えられたことによって福音は後退するのではなく、かえって前進しました。福音は、すべての条件が整ったときにはじめて前進するのではありません。福音は折が良い時だけでなく、たとえ折が悪くても伝えられるのです。
 パウロは、キリストの福音の力を信じていたので、牢獄に捕らわれているという、まさしく逆境にあっても、キリストを宣べ伝えることをやめませんでした。
 多くのキリスト者たちも、パウロが捕らえられたことで信仰から離れることはありませんでした。牢獄の中でも少しも落ち込むことなく、決してひるむことなくキリストを宣べ伝えるパウロの姿を伝え知っていました。フィリピの教会の人たちも、他の教会の人たちも、かえってキリストの福音の力を確信するのです。キリスト者たちは、どんな迫害にあっても少しも恐れずに、ますます勇敢に御言葉を語るようになるのです。そうして福音が前進しているのです。だからパウロは、キリストが伝えられていることを喜んでいるのです。
 パウロが「福音を弁明」したために捕らえられていること、そして法廷でもパウロが「福音を弁明」しようとしていることを知って、「愛の動機から」キリストを伝えている人たちによって福音は前進しました。パウロは、獄中でも「善意」でキリストを宣べ伝える者がいることを知ることができました。だから喜んでいるのです。
 一方で、たとえ真実ではなく口実や見えからであっても、パウロに対する「ねたみと争いの念にかられて」であっても、福音は前進しています。自分の利益を求めて牢獄の中のパウロを、いっそう苦しめようという「不純な動機から」であったとしても、それでもなお福音は前進している、とパウロは言うのです。
☆キリストが伝えられれば
 パウロは、「キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」と、手紙で喜びを記します。
 キリストを人々に伝えるために、キリストの救いがその人のために、つまり私の救いのためだということを信じさせるために、神さまはいろんな方法を用いられるのです。フィリピをはじめとするヨーロッパ各地で伝道したのは、パウロ一人ではなかったのです。パウロをねたんで、パウロの悪口を言ったりしながらも、キリストの救いだけは語っていた人によって福音は宣べ伝えられたのです。キリストの救いが、福音がよくわかるようにと、神さまはありとあらゆる手立てを用いられたのです。
 確かにパウロとはそりが合わなかった伝道者がいたのでしょう。しかし、神さまがお選びになる人は、キリストによって救われた人です。欠点は多い、ねたみや争いの念にすぐに駆られてしまう、そんな性格はなかなか直らない、こんな弱さをもっている自分がキリストによって赦され救われた、そのことだけは宣べ伝えたのだろうと思います。
 ☆折が良くても悪くても
 イエス・キリストの福音は、伝える者たちを思いや能力を超えて、福音自らが圧倒的な力を発揮する真理です。伝える者たちの人柄や純粋ささえも問わないほどの力をイエス・キリストの福音自体が持っているのです。
 だからパウロは、「とにかく、キリストが告げ知らされているのですから」と感謝をもって喜ぶことができるのです。
 イエス・キリストの福音は折が良くても悪くても宣べ伝えられます。伝える人間の能力や思いをはるかに越えて福音自身が語り出すのです。だから私たちは、少しもおそれる必要はないのです。私たちにはとても福音を語ることは出来ない、などと自分の力のなさを嘆く必要はないのです。伝道をするものの思いや能力を超えて、福音は伝えられるからです。伝えられるのは力のない私たちではなく、キリストなのです。力に満ちあふれる主イエス・キリストを伝えるのです。主イエス・キリストの福音自体に力が満ちあふれているのです。(201567日 主日礼拝説教より)
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「主に結ばれて歩もう 
エレミヤ書92425、コロサイの信徒への手紙2章6~12
「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」(コロサイの信徒への手紙2章6節)

☆主を受け入れる決断
 「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」
 ここには、キリスト者とはどういうものであるか、どう生きるか、という2つの行為が示されています。すなわち、主イエス・キリストを「受け入れる」ということと、キリストに「結ばれて歩む」ということです。それは、今までキリスト教信仰を受け入れていなかった人が受け入れて入信することであり、そして入信した人のその後の生き方を語っています。
 「受け入れる」という言葉は、今までの自分にはなかった異質なものを取り込む、というような意味があります。異質なものを取り込むのですから、受け入れる時には、抵抗感が多かれ少なかれ伴います。だからこそ、主イエス・キリストを受け入れるには、それなりの決断が必要なのです。
 コロサイ教会の信徒たちも、そうでした。コロサイはエフェソの東にあった町で東西の文化が交わる交通の要衝として栄えた町です。つまり、さまざまな宗教があり、ギリシャ哲学を始めとした思想が町の人々の考え方に影響を与えていました。コロサイ教会の信徒たちそれぞれにも、今まで自分たちが従って来た考え方や価値観、慣習や生活の仕方があって、今までの考え方と生き方の中に、新たに主イエス・キリストを信じる「信仰」による考え方と生き方が入り込んで来るのです。その信仰が、今までの考え方や生き方と共存するのではなく、今までの考え方や生き方とは入れ替わり、その信仰に「根を下ろして」生きるべき人生の土台となるのです。つまり、今までの人生とは大きく転換した、全く新しい人生に変わるのです。
 もちろん、それは強制されてする決意と覚悟ではありません。あふれるほどの感謝があるからこそ、自ずと促される決意と覚悟です。そして、この感謝と決意とは、洗礼によって表わされます。
 私たちの教会の礼拝堂には、説教卓の脇に、常に洗礼盤を置くためのテーブルが置かれています。洗礼式はあまりないのに、何も置かないテーブルが常に礼拝堂にあるのはなぜか。それは、礼拝に招かれ集って、ここでこのテーブルを目にする度に、洗礼を受けた者たちが、「自分は洗礼を受けているのだ」ということを、主イエス・キリストによって救われた、その溢れるばかりの感謝に生きる自分なのだ、ということを改めて思い起こすためなのです。
 ☆神により刻まれる洗礼
 「洗礼」とは、「手によらない割礼」であると御言葉は語ります。救いの契約のしるしである割礼を、ユダヤ人だけが人の手によってその体に受けて来たのですが、この割礼に代わり、ユダヤ人でも異邦人でも受けられる、新しい救いの契約のしるしが洗礼です。しかも、それは人の手によって身体に受けるものではなく、洗礼式を通して、神によって、聖霊の働きによって魂に刻まれる、目には見えないしるしであるが故に、「手によらない割礼」と言われるのです。
 この「手によらない割礼」である洗礼によって、私たちは「肉の体を脱ぎ捨てる」ことになります。一種の脱皮、人生の脱皮をするのです。それは、別の表現で言うならば、「キリストと共に葬られ」「キリストと共に復活させられ」る、ということです。
 つまり、洗礼とは、私たちの肉の体のお葬式を、一種の生前葬をしてしまっているという意味を持っているのです。キリストが十字架にかかって死なれ、葬られたように、私たちも一度、自分の「肉の体」を葬るのです。すなわち、罪にまみれた人生と生活を葬るのです。そして、神さまの憐れみにより、キリストの十字架により、罪を帳消しにされた新しい人生を生きる。それが、キリストと共に復活させられる、ということです。復活とは、ただ単に生き返るという意味ではなく、神さまと共に、主イエス・キリストと共に、新しい人生を生きることなのです。
 ☆キリストに頼って生きる
 イエス・キリストを救い主として受け入れて信じた者は、主に信頼しながら歩み生活することをパウロは勧めます。その上で、主に在って歩むことがどういうことかを説明します。それはキリストに根ざすこと、キリストとしっかりと結びつくことです。そしてキリストを土台として信仰生活を建てること、つまり人間的な力に頼るのでなく、キリストの力に頼る信仰生活を送り続け、神に感謝する生活を続けるのです。(201514日、主日礼拝説教より)
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「神におぶわれて」
イザヤ書4614、ヨハネによる福音書1467
「わたしはあなたの老いる日まで、白髪になるまで背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」
イザヤ書
464

☆神の約束
 神は、私たちの人生を背負い、救い出してくださる方です。ところが私たちは、自分の力で生きているかのように思い上がったり、反対に落ち込んだり、信仰を失ったかのような生き方をして、自分が神を背負っているかのように歩んでしまうことがあります。そんな私たちに神は語ってくださいます。「わたしはあなたの老いる日まで、白髪になるまで背負っていこう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と。
 イザヤ書が記された紀元前6世紀、大国バビロニアに戦争で敗れ、多くのイスラエルの民が故郷を追われ、バビロニアに捕虜として移住させられました。だれもが、打ちひしがれていたでしょう。その地で、イスラエルの民は、バビロニア人の信じる神々の像を見ました。「ベルやネボといった神々は、本当の神ではない。なぜなら偶像に過ぎないからだ。動くことも、答えることもできない、家畜に引かれて移動するような、ただの像だ。家畜が運び疲れて荷車が傾けば、惨めにも倒れ伏してしまうような重荷でしかない。そんなものを神と呼べるだろうか? 信じられるだろうか?」
 まことの神は、私たちが「重荷」として背負わねばならないものではなく、私たちのことを背負ってくださるお方です。神は、生まれた時から老いる日まで、白髪になるまで背負うと約束してくださるのです。
☆神の愛を証しする

 神が私たち一人ひとりを背負ってくださるとは、神が私たちの人生に意味と根拠を与えてくださるお方だということを意味しています。私たちは誰でも、自分で生まれようとして生まれてきたのではありません。私たちの命を地上に生まれさせたのは神ご自身です。ですから私たちは、私たちを地上に生まれさせ、私たちを生かすことを望んでくださる神のために生きるのです。
 もちろん神のために生きるといっても、私たちの人生が私たちのものでなくなるわけではありません。神に愛され生かされた者として、神の愛の輝きを、私たちを通して照り返すのです。神に愛されたからこそ、人を愛して神の愛を証しするのです。
 私たちは、私たちのような無力で弱い罪人が、神の存在を神の愛を証しすることなどとてもできないと思ってしまいますが、聖書はそんな私たちが神に救い出されて、神の存在を証しすることができると語っているのです。
  人生は、仕事をしている間、活発に活動している間だけに意味があるのではありません。年齢を重ねて、仕事ができなくなり、活発に活動できなくなったとしても、人生に意味を失うことはないのです。
 神が一人ひとりを造り、その人生を良しとして、命の日々を加えておられるのです。一人ひとりの背後には、その一人ひとりを存在させている神のはっきりとした意志があるのです。
 私たちの信仰生活は、この神の恵みを信じながら、また感じながら、そして「神の恵みは確かです」と証ししながら歩む、地上の旅路です。
  75歳になった時、アブラハムは神に召し出されて神に示された地へと旅立ちます。神が与えたアブラハムの使命は、神に従って歩むことで「祝福の源となる」(創世記12:2)ことでした。神の恵みを証しする歩みをアブラハムは75歳になって歩み始めたのです。
☆神に信頼して歩む
 人生には色々なことが起こります。本当に思いがけないことが起こります。突然、すべてを奪い去られたかのような苦しみや悲しみに襲われることがあります。「神は私をお見捨てになったのか?」「神は本当にいるのだろうか?」と、叫ばずにはいられないような気持になることがあります。自分一人で自分の人生を背負って生きることに疲れ、力をもぎ取られて、うちしおれてしまうのです。
 しかし、そのような人生の中で、「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と力強く語りかけてくださる神を信じることができたら、感じることができたら、私たちは立ち上がることができる、生きていくことができるのです。 (2014914日 敬老祝福礼拝より)

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にもかかわらず
詩編143編1~2、ガラテヤの信徒への手紙2章11~21
「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」ガラテヤの信徒への手紙2章16節

☆信仰によって義とされる
「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」とパウロは福音の神髄を書き始めます。人間が義とされるのは、それは一方的に神さまの恵みによって与えられるのです。「義とする」とは、神さまが人間を義と見なしてくださることです。罪人に無罪を宣告することです。罪人のままでは神さまとは離れたままです。しかし、神さまが一方的に歩み寄ってくださって、人間をの罪を赦してくださった。つまり、義とされるということは、救われることです。
 しかし、神さまの恵みによって、私たちは義とされたのですが、私たちが義となったわけではありません。つまり、私たちが、私たちのままで義となったわけではありません。「ただキリスト・イエスへの信仰によって義とされ」たのです。
 そうすると、私たちが義とされるために必要な、主イエス・キリストを信じる信仰とは、いったいどういうことでしょうか。
 それは、「キリストがわたしのうちに生き」ることが「キリスト・イエスへの信仰」です。イエスさまを信じると、私たちのうちにイエスさまが生きて下さるのです。そうすると私たちは義とみなされるのです。神さまの前に出た時に、イエスさまが私たちのうちに生きてくださっていれば無罪が言い渡されて、救われるのです。つまり、イエスさまが私たちのうちに生きているかどうかが、義とされるかどうかの分かれ道です。そして、これが福音の神髄です。

☆信じることは委ねること
ですから、「信じる」とは、受け入れることです。自分をすべて主イエス・キリストに明け渡すことです。自分自身は神さまの恵みによって生かされるのだと、すべてを委ねること、それが信じることです。
 ところで、“抜け殻のような”という言い方があります。体は確かにあるし、飲んだり食べたりしているのだから、確かに生きているのです。ところが少しも気力を感じない。突然の事故や病気で最愛の家族を失った時など、大きな悲しみやショックを受けた時に、こんな“抜け殻のような”状態になることがあります。しかし、信じることは神さまにすべてを明け渡すといっても、無気力で、生きることに何の希望も見いだせない、そんな“抜け殻のよう”になるのとはもちろん違います。
 連続テレビ小説「花子とアン」をご覧になっている方も多いかと思います。先週の放送では、最愛の息子を疫痢で失い、それこそ抜け殻のようになった村岡花子の姿が描かれました。そんな花子が、息子に与えることができなかった物語を他の子供たちにもっと届けるんだ、ということから立ち上がっていくことが描かれていました。村岡花子が抜け殻のような悲しみを乗り越えるのに当たって、実際は信仰的に乗り越えていくのです。それは、最愛の息子の死の際に繰り返し心に響いた聖書の言葉です。「神はその独り子を賜ふほどに世を愛し賜えり」(ヨハネ3:16)。愛する子を与えても惜しまない愛とは?と、神さまの愛を問い続ける中で、日本中の子供のために良質な家庭小説を翻訳しよう、と神さまが与えた天職を見出します。
 “抜け殻のような”人生を送っていた私たちのその“抜け殻”の中にイエス・キリストがいっぱい詰まって生きてくださること、それが神さまにすべてを明け渡すこと、それが信じることです。

☆我が内に主が
 「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」
 洗礼式の時に私たちの教会では水滴を垂らします。水を垂らすことによって体を水の中に沈めることを象徴します。古い自分が死んで新しい命に生まれ変わるのです。新しい命、それは「キリストがわたしのうちに生きておられる」という命です。主が共に生きてくださるという全く新しい人生が始まるのです。
 私たちは自分で自分を義とすることはできません。私たちはルカ18章のたとえに登場するあの徴税人のように、胸をたたいて憐れみを願うことしかできません。しかし、主イエス・キリストを信じる信仰によって、義とされる。罪の泥沼の中でもがいていた私たちが、救われるために何も差し出すことができないにもかかわらず、ただ主イエス・キリストによって義とされ救われるのです。主イエス・キリストが私たちのうちに生きてくださることによって、罪を赦され救われる。“信仰によって義とされ、救われる”ことは、信じることを行うことではなく、神さまからの一方的に与えられる恵みを受け入れることです。
(2014年8月17日、主日礼拝説教より)

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「神を知るためには」 
  創世記1章1~3、ヨハネによる福音書1:1-18

          
 「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」
                                                  ヨハネによる福音書1章18節

 この世界の始めに、世界の源に「言・ロゴス」があった。つまり、この世界の始めに既に神さまの御心が働いていて、神さまが既におられたということを、聖書は語ろうとしているのだといってよいでしょう。その「ロゴス賛歌」の最後で、「いまだかつて、神を見た者はいない」ヨハネは語ります。見ることが出来ないのに、私たちはどうして神さまを知ることが出来るのでしょうか。神さまは、人間の目で見て、理解できるような体も姿も持っておられないからです。だから、何の像も造ってはならないと、神さまは御命じになったのです。
 ところが、私たちが見ることができない、つまり、どのようなお方かを具体的に絵に描いたり像に刻んだりしてあらわすことができない神さまを、あらわすことができるお方がいると聖書は語ります。「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と。
 神さまをあらわせるのは、「独り子である神」だけです。「独り子」というのは、ただ一人という数の上で唯一という意味と同時に、独特なとか、ユニークなという性質の上で唯一という意味もあります。それ以上に「独り子である神」という言葉は、神さまとの関係の深さをあらわしています。神さまとひとり子の関係は、「父のふところにいる」という言葉に現れているのです。「父のふところにいる」というのは、父の胸に安らっている方、つまり、父と最も深い関係にあるということです。イエス・キリストというお方は、人間がだれ一人として見ることができないいと高きところにいらっしゃる神さまの、ふところにおられる方だというのです。神さまと心が通じ合い、神さまの御心を理解することができるただ一人のお方が、イエス・キリストなのだ、ということです。
 イエス・キリストによって開き示される神さまの御心とは、「恵みと真理」だというのです。「恵み」とは、良いことが惜しげもなく示されるということ、つまり、神さまが救われる者に与える賜物のことです。私たちに、いや、この世に与えられた最大の最高の賜物は何か? それは主イエス・キリストです。人となった「言」である神に、主イエス・キリストに神さまの「恵み」が現れているのです。
 この「恵み」に「真理」が結びついているのです。「真理」とは神さまの誠実さを現す言葉です。ヨハネによる福音書ではこの「真理」という言葉が何度も出てくるのですが、必ずイエスさまと結びついて使われる言葉です。「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)と、イエスさまがおっしゃったようにイエスさま御自身が「真理」であるのです。
かつて神さまは、モーセを通して律法がお与えになられました。神さまの誠実さが約束として与えられ、神の民とされた者にルール・律法が与えられたのです。しかし、神さまは約束を実現するのです。真実であり、誠実である神さまが、救いの約束を惜しげもなくこの世に与えられるときが来たのです。それはイエスさまにおいてです。神さまの誠実さが、神さまの真実さがイエスさまにおいて現れているのです。

 主イエス・キリストが来られるまでの時代は律法の時代でした。救いの予約を律法という形で神さまはこの世に与えられたのです。しかしこの予約券は、予約券を持ったからといって安心できるものではなかったのです。救われるという予約を受けたものは、救われる者にふさわしくならなければいけないと考えるようになったのです。したがって、ふさわしくなるためのたくさんのルールを作って生きていくようになるのです。しかし、神さまの与えてくださった予約券をよく見ると、ふさわしくなろうと努力したとしても、自分が本当にふさわしいのかどうなのか分からなくなってしまうのです。むしろ、ふさわしくなさ、自分たち人間の罪の姿が暴かれていることを感じるのです。真剣に、神さまの約束を考える人にとって律法の時代は息苦しさを覚える時代だったのです。
 しかし、神さまは罪ある人間をそのままではおかれません。予約券を渡すだけでいつまでもほったらかしにはなされずに、予約を実現するのです。それは「恵みと真理」という仕方で実現するのです。誠実な神さまの約束を主イエス・キリストによって与えられるのです。
 私たちをいつも支え、そして生かす、「恵みと真理」が神の御心である、と聖書は語ります。この神の御心である「恵みと真理」は、主イエス・キリストによって、イエスさまを通してあらわされるのです。

 私たちの信仰告白である「日本基督教団信仰告白」では、「主イエス・キリストによって啓示せられ、聖書において証せられる唯一の神は……」と告白しています。「啓示」というのは、なかなか開けてもらえない秘密の扉を神さまの方から大きく開いて、その御心を示してくださることです。啓示によって「恵みと真理」を私たちに開き示してくださるのです。主イエス・キリストによってしか、この神さまの御心を知ることはできません。しかし、イエスさまを信じていれば、神さまの御心は私たちにいつも示される。恵みに恵みを増し加える愛を私たちに与えてくださるのです。主イエス・キリストは、私たちを救いに導く神さまの御心を示してくださる唯一の神です。(2014年6月15日 主日礼拝説教より)

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「信じることの恵み」
 申命記30章11~14、ローマの信徒への手紙10章5~13節
   「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。(ローマの信徒への手紙10章8~10)

           「信じることの恵み」
            ローマの信徒への手紙10章5~13

 聖書を読みながら、主イエスはどんな声をしていたのか、と思うことがあります。5000人以上の人に拡声器なしで話すことができるのだから、きっとよく通る素敵な声をしていたのだろうな、などと考えたりもします。心の奥底まで響くその声で直接福音を聞いたならば、疑り深い心ではなく、信仰の篤い人間になっていたかも、なと思うのです。
 弟子たちのように直に主イエスの言葉を聞くことができない私たちは、福音を理解することが難しいのでしょうか。決してそうではありません。私たちも主イエスの言葉を聞くことができるのです。いやむしろ、「御言葉はあなたの近くに」あります。聖書を通して、二千年前にイスラエルの人々が聴いたように、私たちも聖書を通して主が語られた福音を鮮やかに聴くことができるのです。
 今日から、私たちが洗礼を受ける時に告白した日本基督教団信仰告白に言い表された聖書の信仰の順序に従って、共に御言葉を読み、私たちの救いが確かなものであることを確認したいと思います。

 パウロは、救われるためにどうすべきかを語ります。それは「イエスは主である」と告白するのです。それも、口先だけでなく、「心で信じ」なければなりません。心で信じる内容が、「神がイエスを死者の中から復活させられた」ということです。イエス・キリストの復活を信じることが大切なのです。
 そして、主イエスの復活が信じられることは、主の十字架の死が自分とは無関係ではなく、私の罪のためだったということを信じることです。さらに主イエスが復活したことによって、私たちは罪を赦されただけでなく永遠の命を与えられ、主のもとで永遠に憩うことができるのです。だから「心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」ことによって救いへと導かれるのです。
 そして、「神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」ことは心の中だけに留まることではありません。それを公に言い表すのです。何と言い表すのか。「イエスは主である」と言い表すのです。
「イエスは主である」と告白することは、イエス・キリストのほかは誰も「主」ではないということです。十字架の上で死なれ、三日目によみがえった方だけが私の主であると告白するのです。主イエス以外の何ものも私たちの主ではないのですから、罪も死も私たちの主ではありません。たとえ私たちが、つらい病の中にあってもその病も私たちの主ではありません。どんな悩みもどんな苦しみも私たちの主ではありません。あるいは、どんな成功や失敗も、世間からの評判も私たちの主ではありません。「イエスは主である」と告白することは、イエス・キリストだけが私の主であると言い表すことなのです。

 私たちが洗礼を受ける時に告白した「日本基督教団信仰告白」は、「われらは信じかつ告白す」という言葉で始まっています。それは、「神がイエスを死者の中から復活させられたと信じ」て、「イエスは私の主である」と告白しているのです。
 この時、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じる」のは、自分一人だけで信じ、自分一人だけで告白するのではありません。「神がイエスを死者の中から復活させられた」のは私のためだったと信じ、そして「イエスは私の主である」と告白する兄弟姉妹と共に告白するのです。
 私だけではなく、共に「イエスは主である」と告白する者がある、そこに信仰の群れ、教会があるのです。
 「イエスは主である」と口で言い表すのが信仰告白ですが、それは、「イエスは主である」と口で言い表している者たちが同じ主の名を呼ぶことです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と主なる神さまが約束してくださっているから、私たちは主の名を呼びます。この時、主イエス・キリストは私たちの呼ぶ声が聞いてくださっているかいないか分からないほどに遠くにいるのではありません。主は私たちの近くにいつもいてくださるのです。そして私たちの心に宿ってくださって私たちを信仰へと導いてくださるのです。だから、喜びを持って主を呼ぶことかできるのです。まさしくこの礼拝こそが、主の名を呼び私たちの信仰を告白するものとなるのです。(2014年5月18日 主日礼拝説教より)
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「あなたのためのクリスマス」
 イザヤ9章1~5節、ルカによる福音書2章8~14節
    
 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」ルカによる福音書2章11~12節

☆闇を照らす栄光
 あの夜、思いがけない、とても不思議なことが起こったのです。羊飼いたちを、神さまの栄光の光が照らし出します。暗闇の中にいた自分に突然スポットライトが当たられたら、誰でも驚くでしょう。いや、むしろ恐れを抱くのも当然です。光がいつも照らし続けることを、逃げることができないと考えたならば、恐ろしいことです。私たちが、神さまの栄光に照らし出されるということは、いつでも神さまが私たちの周りを照らし出して、私たちには逃げ場がありません。だから、羊飼いたちは恐れたのかもしれません。暗闇の中に逃げ込むことはもうできないからです。足がすくんで、身動きがとれなくなるような恐れを羊飼いたちは、感じたといえるでしょう。まして、その光の中から天使が現れるのですから、羊飼いたちは顔面蒼白になって身震いしたのではないでしょうか。
 しかし、神さまの栄光は、羊飼いたちを滅ぼすためにめぐり照らしたのではありません。救い主がお生まれになった知らせを伝えるために、天使が現れ、神さまの栄光が現れたのです。救い主がお生まれになった。それは、ほかならぬあなたのためだ。羊飼いたちの驚きは、喜びに変わりました。
 救い主がお生まれになった知らせを伝えるために、天使が現れ、神さまの栄光が現れたのです。それも、救いとは関係ないとされていた羊飼いたちに、最初に知らされました。そして、その救い主は、「飼い葉桶の中に寝ている」のです。これ以下はない低い姿で救い主は来てくださったのです。そしてその恵みの知らせが、自分たちは、神さまの恵みにあずかることはできない、と思っていた羊飼いたちに最初に伝えられたのです。闇の暗さを知っている者にとって、光に包まれて、自分の周りがいつも明るく輝いていることほど心強いことはありません。
 ですから、クリスマスの喜びというのは、神の子がおいでになったことで、神さまがいつもそばにいてくださることを確信できることです。どこにいても、神さまの栄光が照らし続けることの喜びです。
☆あなたの救いのために
 天使は「あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げました。イエスさまの誕生は「あなたがたの救いのためだ」と言うのです。あなたがた、つまり、この私を救うためにイエスさまはお生まれになったのですから、この上もない喜びです。
 イエスさまが来てくださったことによって、神さまの御心にかなわなかった私たちが、神さまの御心にかなう者としていただけるのです。神さまからの一方的な光が地上に差し貫かれ、光が輝き照らされることによって、私たちが救われるのです。御心にかなわなかった私たちを救おうとされる、それが神さまの御心です。神の一人子である主イエス・キリストをお与えになることが神さまの御心なのです。
☆神はわが救い
 そうして羊飼いたちは、ベツレヘムの馬小屋に向かい「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行」きました。
 羊飼いたちは、常識を超えた、神の救いの喜びを確かに見届けて、天の大軍の讃美の和に加わります。Christ Mas、それはキリスト礼拝のことです。最初の礼拝は、羊飼いたちによってささげられ、祝われました。そして、自分の救いのために神の一人子が来てくださったことを証しするのです。「イエス」という名、それは、「神はわが救い」という意味です。神さまが、この私を救うために来てくださったというクリスマスの喜びを、羊飼いたちは天使たちと讃美することができるのです。
 クリスマスは、私たちのために訪れたのです。私たち、つまりあなたのためにクリスマスはやってきたのです。だから私たちの誰もが、イエスさまの誕生を喜ぶことができるのです。私たちは天使たちと声を合わせて、今この時に私たちを救って下さる神さまを讃美することが出来るのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」という天の軍勢の讃美に加わることができるのです。

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「放蕩息子」
ルカによる福音書15章11~32

  「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」ルカによる福音書15章20

☆黄色いハンカチ
 「幸せの黄色いハンカチ」という映画がありました。主人公は北海道の炭坑の町で働いていたのですが、喧嘩のはずみで人を殺めてしまい刑務所に入れられてしまいます。そして数年後に刑務所を出て、自分の家に帰ることになります。しかし、気がかりなのは、妻が自分を待っていてくれているだろうか、それとも拒まれてしまうのだろうかということです。妻が夫を待っていてくれるという赦しのサインが、黄色いハンカチなのです。
 この「幸せの黄色いハンカチ」という映画のモチーフになったのは、もともとアメリカであった実話ともいわれていますし、実際は、実話といわれる物語さえも、聖書の放蕩息子の譬え話を現代に置き換えた物語だとも言われています。どんなにひどい罪を犯しても、どんなに過ちを繰り返しても、黄色いハンカチが、それこそ花を咲かせたように迎えてくれる。それが聖書の語る父親の赦しです。罪人が神のもとに立ち返るとき、神は私たちの罪を赦し、むしろ私たちを喜びを持って迎え入れてくださるのです。
☆放蕩のなれの果て
 弟は、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言います。ユダヤでは、父が死ぬ前につまり生前の財産の相続は、書類上の名義変更しか認められていませんでした。ですから、こどもが父の財産を処分して使うことは許されませんでした。しかし弟は全部を金に換えて、刺激のないユダヤよりも楽しみのたくさんある外国暮らしを望んで遠い国へ旅立ってしまいます。
 しかし、案の定、弟は無駄使いをし、すべてを使い果たしてしまうのです。悪いときには悪いことが重なるもので、弟が暮らす地方に飢饉がおこります。誰もが食べるものにも困っているのですから、無一文になった弟などに食べ物を与える人は誰もいませんでした。お金を持っている間は、友だちもたくさんいたことでしょう。でもそれが本当の友だちではなかったことは、困難になったときに明らかになります。世間は冷たいのです。困難にあるときに傍らに立ってくれる友こそ本当の友と言えるでしょうが、弟には本当の友が一人もいなかったのです。
 それでも、弟に優しくしてくれる人がいなかったわけではありませんが、ユダヤ人から最も軽蔑されていた豚の世話をさせるという仕事を与えただけでした。さらに、食べるのに困って、豚の餌さえも食べたいと思うところまで落ちぶれてしまったのです。
☆我に返って
 ここに至って初めて、弟は自分の誤りに気づき、「我に返」ります。弟が我に返った末に願ったことは父の元に帰り、わびることでした。彼は我に立ち返り、悔い改めて家に戻るのです。
 「我に返る」こと、それは本来の自分に返るということです。自分が本当は誰であるのかということに、今やっとこの弟は気づきます。だから、この弟は、本当の自分はどういうものなのかが分かった時に、自分が実際に返るべきところが、父親のところ以外にないことを知ったのです。それだからこそ、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」と言おうとしたのです。
そうです。罪とは、天にいる神に対して、遠い存在になってしまうことです。それだけでなく、肉親である父や隣人たちに対しても、遠い存在になってしまうということです。そのように、弟は、どん底まで落ちて飢えて死ぬような思いになって初めて、自分が父親や隣人から、ずっとずっと遠いところにいたことを知りました。だから弟は、家に帰って、父親にわびるべき言葉を考えたのです。
☆父の赦し
 ところがです。弟はわびの言葉を用意して父のところへ帰ったのに、父は弟がわびの言葉を言う前に、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻し」ます。「首を抱き、接吻し」たのですから、父親が赦して受け入れたというしるしです。
 父親に抱きしめられ接吻されて初めて息子は、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と、わびの言葉を言うのです。
 息子が我に立ちかえる前に父の赦しがあるのです。そして、父の深く大きな愛に触れた時に、弟は初めて本当の悔い改めができたのです。
 ☆神の愛
 私たちの教会は、父なる神の大きな大きな愛のふところなのです。神は私たちを、私たちの家族を、そして私たちの隣り人を辛抱強く招き続け、待っていてくださるのです。  (2013年11月17日 主日親子礼拝説教より)

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「十字架につけられた死」
エゼキエル書33章10~11、ローマの信徒への手紙6章4~11
 「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」

 「死は、もはやキリストを支配しない」。
 主イエス・キリストの復活の驚くべき真実について述べられている言葉です。十字架の上で死んだにもかかわらず、復活された主イエス・キリストは、もはや死によっては支配されていないというのです。私たちにとって、決して無関心ではいられないことなのです。死に支配されている私たちにもこの言葉は語りかけられているのです。「死は、もはやあなたを支配しない」と。

 ペトロをはじめとする弟子たちが殉教の死を恐れずに伝道したという事実の中に、今私たちが御言葉を聞いている聖書の中に、教会が誕生し教会が存続することの理由の中にイエスさまが復活された確かな足跡があります。
 さらに、その確かなイエスさまの足跡というのは、この私たちです。私たちのような者が、キリストを信じるものとして生かされているということです。私たちが、信じ続け、望みを持ち続けることが出来ることはいったいなぜでしょうか。罪の中にあり、罪の結果としての死に対する恐れに捕らわれていたのが私たちではないでしょうか。信じるよりも背いてしまう、望みを持つよりは絶望してしまうのが私たちです。人を愛するよりは、恨んだり、そこまでではないとしても無関心によってうち捨ててしまうのが私たちではないでしょうか。そんな私たちが、信仰に生かされ、望みを持ち続け、そして愛することを赦されている。それは、私たちの主人が死や罪ではないからです。私たちの主が、復活されたイエス・キリストであるからではないでしょうか。復活され、私たちと共に生きておられる主イエス・キリストが私たちの主でいて下さるのです。それこそまさに、「死はもはや彼を支配しない」ということです。
 罪の中に死んだ私たちが、洗礼によって今確かな命に生かされているのです。復活の主イエス・キリストの足跡が私たちにあるということは、私たち自身のイエス・キリストと共に生きる命の足跡が確かに私たちにもあるということです。
 もちろん、一回限りの洗礼でキリストに結びつけられた私たちですが、洗礼という足跡は私たちの目には見えないので、救われていることの確信を持てなくなることがあります。すぐに罪にとらわれ、孤独な死を迎えなければならない恐怖にとらわれてしまうかもしれません。だからこそ主イエス・キリストはパンと杯の聖餐を備えて下さったのです。パンと杯にあずかるとき、それは、復活され、私たちと共に生きておられる主イエス・キリストのからだに今あずかるのです。私たちの中に踏み入れられたイエスさまの足跡を再確認するのです。
 だから私たちは、この日「聖徒の日」にキリストと共に生きるという確信を持って天に召された信仰の友たちのことを覚えながら、共に天で復活の主の命にあずかる希望を今持つことが出来るのです。
(2012.11.4.聖徒の日主日礼拝より)

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  「天を裂いて降る神」 
 イザヤ書63:19-64:1、マルコによる福音書1章9-11
  「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。」
水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(マルコによる福音書1章10-11)

 ナザレを出られた主は、エルサレムへ上って行かれたのでも、高い山へ上っていかれたのでもありません。ヨルダンの低地に下っていかれるのです。そして、ヨハネの前に出られて、洗礼を受けることを望まれました。
 イエスさまともあろうお方が、「悔い改めの洗礼」を受ける必要があったとはとても考えられません。イエスさまは全きお方です。赦される罪など一切ないのです。しかし、イエスさまは、洗礼を受けることを望まれるのです。罪を告白して洗礼を受ける群れにイエスさまが加われるのでした。ほかの人たちと同じように洗礼をお受けになられるのです。私たちが這いつくばり、罪の中に沈んでいる、そんな低みにまでイエスさまは降ってくださったのです。イエスさまの側から、私たちの低みにまで降りてきてくださったのです。イエスさまはこうして、洗礼の中に入られました。私たちが受ける洗礼の実質となられたのです。
 イエスさまが洗礼を受け水から上がられた途端に天が裂けました。ということは、それまで天は覆われていたということです。その天が、裂けた。人間の頭上で固く閉じられていた天が裂かれるのです。人間の側からの悔い改めなどではどうにもならなかった天が、計り知れない力が働いて裂かれるのです。人間から、遠く隔てられていた天が、ついに裂かれるのです。そして、聖霊が鳩のように主に下られるのをイエスさまはご覧になりました。

 聖書のもとの言葉では、「裂ける」という言葉が、マルコによる福音書には、もう一カ所だけ使われています。それは、15章38節。十字架につけられたイエスさまが、ついに息を引き取られたときに、神殿の幕が真っ二つに裂けたことを記す箇所です。
 主イエス・キリストが、御自身の血を流され、御自身を贖いの小羊として捧げられたことによって、新しい契約が結ばれるのです。律法のもとでは大祭司以外は入ることができなかった神さまのおられる至聖所と、私たちを隔てていた幕が真っ二つに裂けることで取り払われるのです。
 イエスさまの地上での歩みの最初の出来事において、神さまが天を裂かれて、地上へと来てくださった。そして、イエスさまの地上での歩みの最後において、私たちと神さまを隔てていた幕を裂いてくださって、私たちの誰であっても神さまにお会いできるのです。私たちが、この地上においてどこででも神さまとお会いできるようにしてイエスさまがくださったのです。
 マルコは、福音書の最初と最後の部分においてこの事実を確認するのです。神さまが地上へと来てくださったという事実です。この喜びを確かなこととして書き記すのです。
 そして、御声がこの裂かれた天から語られるのです。荒野で呼ばわる者の声ではありません。父なる神さまが直接語られるのです。イエスさまを本当に愛されたお方の声です。イエスさまのこの地上でのまっすぐな道筋の先に立ちはだかるのは、十字架です。神さまは、愛するひとり子が罪なきまま十字架につけられるのを、「よし」とされたのです。私たちの救いのためにイエスさまが十字架につけられるのを、神さまは「心に適う」とおっしゃいます。
 それならば、神さまが「わたしの愛する子」とおっしゃってくださるのは、ひとり子であるイエス・キリストであると同時に、私たちでもあるのです。最愛のひとり子をさえ惜しまないほどに、私たちを愛してくださっているのです。
 御声が確かに鳴り響いた時に神の国の到来は始まりました。「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」として立てられた神さまのひとり子、主イエス・キリストによって、よきおとずれの激しい風が吹き・聖霊が私たちに降ったのです。時が満たされ、神の国が、神さまの支配が今や始まろうとしている。福音のない私たちの地上の現実世界に、この神の国の福音が、まさに近づいてきているのです。
 だから、私たちは、今輝いている光に顔を向ければいいのです。私たちはこの光のおとずれを信じればいいのです。

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「塵の上に立たれる神」
 ヨブ記19章23~27、ローマの信徒への手紙8章32~39

 「わたしは知っている わたしを贖う方は生きておられ ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも この身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(ヨブ記19章25~27)

 ヨブという人は財産と家族と健康を与えられた恵まれた人生を送っていた人でした。そのヨブが突然の災難のためすべての財産と最愛の家族(10人の息子と娘)を一度に亡くし、さらに全身が重い皮膚病にかかり激痛が襲いました。ヨブは、神さまに向かって、自分がこのように苦しみ悲しみを受けなければならないのかを問い続けます。
 生まれた日を呪うことから始まったヨブ記は、大きな苦しみに直面したヨブを慰めようとして遠い所からやってきたという三人の友人たちとヨブのやりとりが記されます。三人の友人たちの考えの根底には因果応報の論理がありました。ヨブに向かって、あなたの苦しみには、あなた自身の過ちが原因となっていると、言うのです。因果応報の論理でヨブに語りかける友人たちの言葉は、ヨブを慰めるどころかいらだたせ、ヨブは友人たちに対して激しい怒りの言葉を浴びせます。そしてヨブはその怒りの矛先を神に向けてしまいます。「なせてせすか」「どうしてですか」と神に向かって食い下がるのです。
 ヨブは真剣に神に向き合う中である確信が与えられます。そしてこのヨブの確信を後の世の人々にも伝えるために自分のお墓に刻みたいと言うのです。 それは、「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ ついには塵の上に立たれるであろう」ということをです。
 「わたしを贖う方」というのは、神とヨブを仲裁し執り成してくださる方です。その方は生きておられ、塵の上に立たれるのです。「塵の上」は、陰府です。神が自分を悪者に引き渡し人生に絶望したので、神から見捨てられた場所である陰府に自分を隠して欲しい、とヨブは願いました。ところが、その陰府に、贖う方、執り成してくださる方がおられた、そのことを知ったというのです。神から見放されたところに、自分を贖う方がおられ、そのところで自分のために祈ってくださっていた、執り成しの祈りをささげてくださっていた、ということを知ったのです。
 ヨブは大きな苦しみを経験する中で、神と自分を執り成す方は、高い高い所ではなく、最も低い所、神から見放された所である陰府に降ってくださり、塵の上で私のために祈って下さる方だ、ということを示されたのです。

 今このときにも苦しみや困難があります。それは、大震災で被災した多くの方がそうであると同時に、ここにいる私たち一人ひとりにも苦しみがあります。その中で私たちは、たとえ私たちが罪の故に死を迎えようとも、魂が贖われることを信じています。陰府に降られ塵の中に立たれる方が私たちを魂だけではありません。体も含めてすべて贖ってくださるお方だと言うことを信じています。
 ヨブは苦しみのために自分の体が朽ち果ててしまうかも知れない、しかし、その朽ち果ててしまう体で神を仰ぎ見ることができる、神にお会いできるというのです。それは神と自分の間に立つ方は、陰府において、苦しみの底の底で祈っていてくださるお方からです。
 ユダヤ教の中にもあった因果応報の思想の前に立ちはだかり、「神の業が現れるため」(ヨハネ9:3)と、ご自身の命をささげて神の御業を現してくださった主イエス・キリストが、今もいてくださるのです。 (2012年3月11日、主日礼拝説教より)

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 「わたしたちは栄光を見た」
   イザヤ書8章23~9章6、ヨハネによる福音書1章14~18
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネによる福音書1章14)

☆救いの予約
 主イエスが来られるまでの時代は律法の時代でした。神は救いの予約を律法という形でこの世に与えられますが、この予約券をよく見ると、自分のふさわしくなさ、自分の罪の姿が暴かれていることを感じざるを得ませんでした。
 しかし、神は予約券を渡すだけで罪ある者たちをいつまでもほったらかしにはなされずに、予約を実現します。それは「恵みと真理」という仕方です。神の真実な御心は、主イエスによって与えられます。その与えられ方も泉に水がこんこんと湧き出るように神の恵み恩寵があふれんばかりに湧き出るのです。それも一回だけ与えられるのではなく、いつもあふれ出る恵みによって、身も心も潤されていくのです。
私たちをいつも支え、そして生かす、「恵みと真理」が神の御心である、と聖書は語ります。この神の御心である「恵みと真理」は、主イエスによって、主を通してあらわされます。主イエスを神の独り子キリストだと信じるだけで、神の御心を私たちは知ることが出来ます。信仰を持たなかった時には、「天国の秘密」とでも思うしかなかった神の考えが、はっきりと分かるようになるのです。
 神は出し惜しみをなさいません。独り子をこの世を救うためにお与えになるという御心を余すことなく示してくださいます。神の「真理」それは、私たちを愛してくださっているということです。
☆暗闇を貫く光
 私は仙台で学生時代を過ごしました。今回の東日本大震災で被災した友人が少なくありません。その中に、震災による津波で家や多くの親族や隣人を、そしてもさまざまな思い出も、大学卒業後は開くことがなかった聖書も含めてすべてを失った友人がいます。その彼が生活必需品以外に最初に手にしたものが聖書でした。避難所や仮設住宅で聖書をむさぼるように読んでいることを、そして聖書の中に希望を見いだしつつあることを、彼から時折くるメールによって私は知ることができました。絶望のなかにある者にも、光は訪れるのです。暗闇のなかで、死の影に襲われる者に、光が輝くのです。
 神は私たちを愛してくださいます。たとえ、世界が闇に包まれても、神はくまなく世界をご覧になっていて、その闇を覆い尽くすような光を注いでくださいます。私たちが絶望したとしても、悲しみに襲われたとしても、神は私たちのことを心に留めていてくださって、神の「恵みと真理」によって私たちを支え導いてくださいます。それは、神がこの世を、そして私たちを救おうとする決断をされたからです。神の救いの決断は、御心は主イエス・キリストによって私たちに示されているからです。(2011年12月25日降誕日主日礼拝説教より)

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「私のようになってください」
イザヤ書42章6~7、使徒言行録26章19~32
 「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります」(使徒言行録26章29)

 パウロはローマに送られる直前、ローマ帝国の総督フェストゥスとイスラエルの王アグリッパに、自分がキリスト迫害者からキリスト者へと変えられた、イエス・キリストの呼びかけを福音の光を、証しします。フェストゥスは、自分に語りかけられている福音が理解できなくなってパウロの話をやめさせようとます。そこで、パウロはアグリッパに直接語りかけます。旧約聖書を与えられたイスラエルの王アグリッパに、神さまの呼びかけが語られている。聖書が預言しているキリスト・救い主がついに現れた。闇の中に光が輝いたことは、イスラエルの片隅で人知れず起こったことではなく、ユダヤ全土を揺るがすような世界を動かすような出来事として起こったのだ、預言通りにキリストが現れたことをイスラエルの王が見逃すはずがない、とたたみかけるようにパウロは語って、アグリッパに迫るのです。
 ところが、アグリッパもローマの総督フェストゥスと同じようにパウロの言葉を拒絶します。アグリッパはパウロが何を語ろうとも、キリスト者になるつもりはない、と拒絶したのです。しかし一方で、「短い時間でわたしを説き伏せて」というアグリッパの言い方に、アグリッパがパウロの語る言葉に心を動かされていることを読み取ることも出来ます。しかし、アグリッパ王が、もう少し聞けばキリストを信じる者となれたとしても、ほとんどなりそうなキリスト者とほんとうのキリスト者との間には大きな隔たりがあります。

 私が子供のころ遊んだ公園に、コンクリートの土管をいくつも並べて汽車の形にした遊具がありました。小さい子供は汽車の中に入って遊ぶのですが、少し大きくなると男の子たちは屋根の上をひょんぴょん飛んで、1両目から2両目、2両目から3両目と渡っていきます。私も汽車の中で遊ぶのが物足りなくなった時に、土管の上に上がって、ほかの男の子たちと同じように屋根を飛び渡ってみようと思ったのです。ところが、1両目から2両目の屋根に飛び移るときに尻込みしてしまうのです。そこで、私は土管から一度おりて、1両目の端と2両目の端に横線を引いてみて、50~60センチほどの間隔の線を飛んでみます。難なく飛べるのです。飛ぶというよりもそれは一またぎなのです。ところが、土管の上に上がると、また恐くなって飛べないのです。 たとえ50~60センチという一またぎの間隔でも、下にぽっかり谷間があるということ、自分を支えるものがそこにないということが問題となって、尻込みしてしまうのです。飛び越えるためには、自分の能力ではなく、勇気と決断が必要なのです。
 イエス・キリストを信じることも同じことです。アグリッパ王は聖書を知り、イスラエルに到来した光の出来事を耳にしていたのです。しかし受け入れることは出来ませんでした。信じることが出来ないのです。神の国から遠くはないけれども神の国に入ることは出来ないのです。
 しかし、一歩を乗り越える時に、土管と土管の間の谷間には今生きて共にいてくださるイエスさまが支えてくださっているのだ、という確信が与えられるならば、神の国に入ることが出来るのです。光に従って迷わずに歩くことが出来るのです。「私のようになって下さい」ということは、生きる光を見いだしているならば、人生を支え死の先にある永遠さえも導いてくださるお方を知っているならば、言えることなのです。だから、神さまの恵みに生かされているあなたならば、家族にも、友人にも、知り合いにも「私のようになって下さい」と、伝えることができるのです。(2012年2月5日主日礼拝説教より)

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「私たちの後ろ盾」
列王記上19章18、使徒言行録18章1~11
 「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒言行録18章9~10)

 「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」
 主イエス・キリストの言葉です。主の救いがこの町の民にも約束されているのです。主の民は大ぜいいます。私たちには見えなくても、主には確かに大ぜいの主の民が見えているのです。だから、この言葉は私たちにとっても確かな約束です。

 コリントにおいて主の救いの御業が現れれば現れるほど、パウロの恐れは大きくなっていったのかも知れません。パウロが恐れたのは、神さまの御業が進むとき、それに逆らう迫害などの力がいかに大きく働くかをパウロはよく知っていました。それと同時に神の御業があらわれるときに、人は恐れを抱くのです。神さまが自分に働いていることを知ったとき、パウロは確かに恐れおののかざるを得なかったのです。
 聖霊によって御子イエス・キリストを宿したマリヤに、天使が告げた言葉が「恐れるな」です。クリスマスの夜、羊飼いたちが主の栄光に包まれておじ惑っているときに天使が語った言葉も「恐れるな」です。神さまが自分に働いていることを知ったとき、どうしても人は恐れおののかざるを得ないのです。
 しかし、神の御心を知るときに、その恐れは真実の平安に変わっていくのです。だから、聖書の中に繰り返し語られてきた「恐れるな」という言葉が、パウロにも語られたのです。
 「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」
 「恐れるな。わたしがあなたと共にいる」。この言葉にパウロはどれだけ励まされたことでしょう。パウロが働きを続けるためには、この言葉で十分でし
た。しかしそれにしても、コリントの町のどこに主の民が大勢いると、主は言うのでしょう。確かに人の目には主の民の姿はまだ見えてません。しかし、神さまは人が見るようには見ておられないのです。罪の力が支配しているように見えるその町に、神さまは大勢の主の民を既に見ておられるのです。まだ異教の神を拝んでいるかも知れない異邦人たちの中に、主の民をすでに見ているのです。パウロに敵対し、福音に敵対し、パウロを罵りつづけているユダヤ人たちの中に、イエスさまは御自身の民を見いだしているのです。

 日本の土壌はキリスト教には合わないのだ、という考えがあります。 日本に福音が伝えられてから150年、ザビエルによってキリスト教が伝えられから500年近くも経っています。韓国や中国、台湾などの同じ東アジアの国々にはどんどん福音が広まり、教会が建てられています。ところが、いまだに日本のキリスト者は全人口の1%にも満たない状態です。これは、日本はキリスト教に適さない土壌だからだ、と判断することが出来るかも知れません。まして北陸は仏教王国、真宗王国といわれる土地柄ですし、福音が届く隙間がないほどに他の神々を拝む信仰が茨のように覆っているようにも見えます。まして、個人の信仰を尊重するという風土であるとは決して言えないかも知れません。
 この地においても、64年にわたって語り続けられている福音に関心を持たない人が実に多いのです。私たちの大切な家族や親しい友にイエスさまの福音を聞いてもらえないのです。ほんとうにイエス・キリストの福音を聞いて欲しいあの人に、伝道できないという無力感に襲われた経験を持つ人もきっといるだろうと思います。
 そんな私たちにも、イエスさま語っていらっしゃるのです。私たちの家族にも、友にも「わたしの民が大勢いる」と、主はおっしゃっています。私たちは
あらためて、主の御言葉に従い、福音伝道のために祈りを合わせ、励みたいと思います。もちろん、伝道は私たちの力でなすのではありません。主がいつもついていてくださるのです。むしろ、共にいて下さる主が、私たちの後ろ盾である主が、私たちを用いて御業を現してくださるのです。(2011年6月19日、主日礼拝説教より)

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「神の不思議な計画」
アモス書3:7~8、使徒言行録9章19b~31
「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」(徒言行録9章31)

☆教会の平和と福音の前進
 サウロ(後のパウロ)の目からうろこのようなものが落ちたことによって、つまり迫害者サウロが回心しキリストを信じるものとなったことで、教会に平和が訪れた、と聖書は語ります。教会の平和は、人騒がせな危険人物がいなくなってほっとしたことではありません。教会の平和は、福音の前進によって訪れるのです。聖書はそう語っているのです。
 サウロは、ダマスコへの途上で光に撃たれ、復活の主イエスの御声を聞くという特殊な体験をしました。もしサウロが、ただ単に自分の個人的な体験だけで止まって、使徒たちとの交わりを持たなかったら、たぶんサウロは歴史の中に消え去ったことでしょう。
 しかしサウロは、信仰生活とは、同じ信仰を告白する共同体に連なることであると理解していたのです。サウロは、ペトロたちとの交わりの中で復活の出来事や主イエスの教えや御業について聞き、自分自身の経験したことや神さまから啓示されたことを、使徒たちの教えの中に確認して、とらえ直していったのです。サウロは、「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです」(Ⅰコリント15:3)と語っています。サウロにとって大切なのは、自分自身の特殊な体験ではなくて、教会で受け継いだ福音なのです。
 私たちについても同じです。神さまの働きは全く同じではありません。一人ひとりは違います。一人ひとりの体験は大切です。軽く扱っては行けません。しかし、私たちの経験は、教会を離れたところで信仰生活の土台とはなりません。そのような信仰生活はやがて倒れるか、異端に走ることになるのです。私たちの経験はいつでも教会で手渡されてきた信仰によってとらえ直されるのです。聖書を通して、確認されていくのです。

☆神が与えた慰め
 さて、そのような思いを持ってエルサレムに入ったサウロですが、厳しい現実が待っていました。やはり、エルサレムの教会には受け入れられず、ユダヤ人たちから命を狙われることになりました。サウロは改めて、自分を待ち受けていた厳しい現実の中で、自分の罪の重さを身にしみて痛感したことでしょう。
 しかし、神さまはサウロに、慰めを与えられます。神さまはバルナバ(慰めの子)という名前を持つ助け人を備えられました。誰もがサウロを信じられない中で、バルナバ一人だけがサウロを徹底的に信じ受け入れました。そのバルナバの執り成しによって、サウロは教会に受け入れられることになります。まさに神さまの慰めがここにありました。さらにユダヤ人たちから命を狙われた時、彼を助けようと努めたのは、かつてサウロが迫害した教会の兄弟たちでした。「それを知った兄弟たちは、サウロを連れてカイサリアに下り、そこからタルソスへ出発させた」のです。
 主イエスのあわれみによって罪を赦されたサウロが、かつて自分が迫害した人々によって赦され、愛され、助けられたのです。イエス・キリストによって一つに結び合わされているのです。実に神さまの慰めと平和がそこにあるのです。
 だから、「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった」のです。教会の平和は、危険人物がいなくなってほっとしたことではありません。教会の平和は、イエス・キリストの福音が前進したことによって訪れるのです。キリストに背いたものがキリストに赦されキリストによって生きるものとされた時に、前進するのです。私たちの教会の姿がここにあるのです。 (2011.1.16.主日礼拝説教より)

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  「大胆に語れ」
詩編146:5~6、使徒言行録4章23~31
 「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」(使徒言行録4章31)

 「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」
ペンテコステの出来事は、二千年前に一度だけ起こった出来事ではありません。祈る者の群れに繰り返された出来事です。祈る群れに何度も何度も聖霊がそそがれ、主イエスの力があらわされたのです。
 よく、「祈ってばかりで何も始まらない。祈っても何も出来ない」という人がいます。確かに、祈ってもなかなか思う通りに出来ないかも知れません。むしろ、いくら必死になって祈り続けても何も出来ないことの方が多いのです。確かに人間がすべてをなすのであれば、祈ったとしても何も出来ないのです。しかし、すべてを導くのは神です。神が御業を現してくださることを信じるならば、そして信じて祈るならばすべては聴かれ、神がなされるのです。

 主イエスが復活したという喜びのおとずれを宣べ伝えていたペトロとヨハネが、サドカイ派の人々によって捕らえられました。そしてイスラエルの国会で裁判を受けてから釈放された直後の出来事をきょうの御言葉は記しています。釈放の条件は、主イエスのことを宣べ伝えてはいけないということでした。
 ペトロとヨハネの報告を聞いた弟子たちには、一度は迫害の現実の恐ろしさに気を落としたのです。しかしすぐに、ある確信がわき上がってきたのです。その確信は弟子たちの間に力となってこみ上げてきたのです。神は私たちと一緒にいてくれる。神を信じる者と共にいてくださる神は、神に背く者さえも支配しておられるのだという確信です。だから一同は、心を一つにして神に向かって声をあげたのです。そして、弟子たちに直面している危機や困難の中で、神が御業をなしてくださることを信じて祈ったのです。
 ペトロとヨハネが逮捕されて伝道を禁止されるという迫害を受けた時に最初の教会がしたことは、迫害対策会議ではありません。祈り会だったのです。教会の仲間は深刻な危機に直面して共に祈ったのです。ここに、神を信じる私たちがまずしなければならないことが示されています。
 あれこれと思案に暮れる前に、まず祈ることです。祈らないまま、思案したり議論したりすると、悲観主義や絶望の罠にはまってしまうでしょう。困難を感じるときには、祈って神の助けと導きを求めることが一番大切です。
 主イエスも地上の生涯ではいつもそうなさいました。使徒言行録を書いたルカが記した福音書には、主イエスが祈っていることが繰り返し繰り返しでてくるのです。洗礼を受ける時(3:21)、いやしを行う時(5:16)、山上の変貌の時(9:28-29)、十二弟子を選ぶ時(6:12)、ペトロの信仰告白を促した時(9:18)、弟子たちに主の祈りを教えられる前にも主イエスは祈っていました(11:1)。十字架上でも「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(23:34)と祈られているのです。
主イエスご自身も祈っているのですから、私たちにも祈ることを主イエスは求められているのではないでしょうか。私たちの祈りは、主イエスの祈りにならう祈りです。もちろん、主イエスが祈るのとは私たちの祈りは違います。私たちがいくら祈っても、私たちが思う時に、思う形ではなかなか実現しないかもしれません。しかし、神はこの祈りを聴いてくださって、神がよしとされるときに、神が最もよしとされる形でかなえてくださいます。
 最初の教会の弟子たちは、心を一つにし、思いを一つにして祈りました。「迫害をやめさせてください」とか、「迫害にあわせないでください」と祈ったのではありません。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め」てくださいと祈ったのです。自分たちの身に降りかかってくる困難の理由など、私たちにはわからないのです。しかし、自分を苦しめ悩ましている困難の意味を知っておられる方に、その困難に目を留め続けて欲しいと祈るのです。自分を迫害する者を通してさえも、自分を悩ませる者を通してさえも、神の御心を示して欲しい、と祈るのです。すべてを導かれる神に、ちゃんと見ていて欲しいと祈るのです。
 そして、「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と祈るのです。「大胆に」という言葉は、「あらゆる自由さを持って」という意味です。弟子たちには「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」という命令がなされているのです。しかし、大胆に全く自由に語らせて欲しいと祈るのです。この世のさまざまな掟や習わしに縛られるのではなく、神の僕・奴隷となる時に、全く自由になれるのです。神以外の何ものにもとらわれない自由さが、キリスト者には与えられているのです。だから大胆に語れるのです。弟子たちは脅されて全く自由さを失っている中で、主に在って自由であることに立ち帰るのです。
もちろん、私たちが伝道することは、決して簡単ではありません。私たちには、初代教会のキリスト者が受けた迫害などはないとしても、身近にいる人々に伝えられないことの現実にすぐ私たちは襲われてしまいます。しかし、伝道するのは、私たちの力によってではありません。神がなされるのです。たとえどんな悪巧みさえも、救いの御業のために用いられる神です。それならば、神を信頼し神に祈る者を、神は用いないはずはありません。私たちを豊かに用いて、神の御業を証ししてくれるのです。神のあふれるばかりの恵みが私たちには確かに注がれているのです。
(2010年7月18日・主日礼拝説教より)

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「心燃やす喜び」
 エレミヤ書31:31~33、ルカによる福音書24章13~32
 「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(ルカによる福音書24:30~32)

☆戸をたたく神
 人間は時に心を閉ざします。悲しみの中で苦しみの中で希望が見いだせなくなるときに心を閉ざすのです。自分自身の殻の中に入り込んでしまうことについて、宗教改革者ルターは、「自分の中へ折れ曲がること、自分の中にカーブすることは罪だ」と、言っています。そんな罪の殻に閉じこもってしまっている者に対して、主イエスは戸をたたき続けてくださるのです。十字架につけられたその御手で心を閉ざしている私たちの戸をたたき続けてくださるのです。

☆失われた希望
 二人の弟子は希望を失い、エルサレムから逃げ出すように旅を続けていました。その二人が、心が燃えるような経験をすることになります。それは、二人の弟子に近づいて、旅を共にされたお方、復活された主イエスによってです。主イエスは、主イエスの思い出を語り合い論じ合っている二人の弟子に近づいて、旅に同行してくださいます。
 ところが二人の弟子は、一緒にいるお方が主イエスだとは気づきません。それは、二人の弟子の心の焦点が、思い出の中の主イエスに合わせられていたからです。「主イエスは、もう死んでしまったのだ」という希望を失った二人の弟子には、目の前にいる望みに焦点を合わせることが、どうしてもできないのです。
主イエスは、二人の弟子の不信仰を叱った上で、主イエスの十字架の苦難と栄光を、聖書全体を通して説き明かされました。弟子たちや多くのイスラエルの民が期待していたキリストはローマ帝国の圧政から救い出す革命家でした。しかし聖書が証しし指さすキリストは、革命家などではなく、罪から人類を救うお方だということです。そのことを旧約聖書全体が指し示していると言うのです。

☆主と共に宿るとき
 暗く悲しい顔をして旅をしていた二人の弟子の心に少し変化が生まれてきました。相変わらず目は曇ったままでしたが、心の中で熱く燃えるような思いを感じ始めたのです。だから、彼らの目には他人にしか見えなくとも、聖書をよく知った旅人がエマオより先に進むうとするのを強いて、少し強引に引き留めるのです。「わたしたちと一緒にお泊まり下さい」 と。
 二人の弟子は、聖書をよく知った旅人を家に案内し、食事を共にします。二人にとっては、普通の夕食に過ぎなかったでしょう。しかし、復活された主イエスを迎えたときに、食事は聖なる晩餐に、聖餐式にかわります。食事の席へと招いたのは、食事を用意した二人の弟子ではありません。招かれたはずの主イエス御自身が、この食事の席に二人の弟子を招いてくださるのです。
 そうして、二人の弟子は、生きておられる主イエスから、聖書の説き明かしを受け、パンを裂いて差し出していただいたときに、初めて目が開かれます。それは、思い出の中で力強く、希望を抱かせた過去の主イエスではありません。今生きて、二人と共にいて命の御言葉を差し出してくださる主イエスです。
 主イエスの十字架の苦難が、ローマ帝国に対する革命のためではなく、この世を、人類すべてを、罪から贖い出すためであったということが、本当に初めて分かったのです。復活されて、今生きて共にいてくださる主イエスを見ることが出来たときに、聖書全体が証しし、指さすお方が誰かということが分かったのです。

☆今生きる主
 今生きておられる主イエスは、いつも私たちと共にいてくださいます。聖書の御言葉を通して、私たちの心を熱く燃やしてくださいます。しかし、それだけでは、心を閉ざしていた闇は完全には払われません。
 私たちの心の目が開かれる経験は、御言葉が説き明かされ、パンが裂かれるという経験の中で起こるのです。聖書が説き明かされる礼拝の場で、初めて閉ざされた目が開かれ、孤独から解放されるのです。
 過去の思い出ではなく、今も生きて私たちの心の戸をたたき続けて下さる主イエスの御声に聞くときに、それはまさしくこうして主を礼拝するときに、復活の命に生きる確信を与えられるのです。だから、復活の主をはっきりと見ることが出来、共にいてくださることを知った弟子たちは、絶望の道を下るのではなく、喜びに満たされて再びエルサレムへの道を折り返して行きました。

☆希望に向かう坂道
 私たちは少しずつ齢を重ねて老いていきます。それは、日暮れに向かって坂道を転がり落ちていくように思えることかも知れません。しかし、主イエスの光に照らされるならば、私たちの心の戸をたたいて共にいてくださる主イエスと歩むならば、私たちの人生は、日暮れの下り坂ではありません。希望の夜明けに向かう歩みです。主はよみがえられたのです。復活された主イエスが今も私たちと共に歩んでくださるのです。私たちの心を燃やし希望に満たしてくださるのです。(2010年4月25日、主日礼拝説教より)

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「豊かにされたクリスマス」
 イザヤ書9章5、コリントの信徒への手紙二8章8~11
 「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。
それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(コリントの信徒への手紙二8章9)

  「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」
 これは、キリストの使徒パウロの言葉です。使徒パウロの言葉であると同時に、初代教会の信仰告白だとも言われています。フィリピの信徒への手紙2章にある「キリスト讃歌」でも、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6-7)と、同じ信仰が語られてています。それを、ルカによる福音書2章では、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている」と語っているのです。つまり、主イエスの誕生は、豊かであられた神さまが、貧しくなった、僕つまり奴隷の形になった、飼葉おけの中に寝かされるような赤ん坊として生まれてきたのだ、というのです。クリスマスの出来事とは、豊かであった神さまが、貧しくされた出来事だったのです。それがまさしく飼葉おけに寝かされている姿です。
 なぜ神さまは、豊かであられたのに貧しくなられる必要があったのでしょうか。それは、私たちが豊かになるためです。私たちを豊かにするために、主は貧しくされる必要があったのです。
このコリントの教会にあてた手紙でパウロは、そのころ苦しい状態にあったエルサレム教会を助けるために、献金を呼びかけています。しかし、パウロの献金の呼びかけは、コリント教会の人たちにはなかなか理解されず、パウロの懐を豊かにするために献金を呼びかけているのではないかと、疑いの目で見られてもいました。
 そんな疑いの目で見られながら、なぜエルサレムの教会を助けるための献金をパウロは呼びかけ続けたのか、それは、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」からだ。あなたたちは、豊かにされたのだ。そのキリストの恵みをあなたたちは知っているのだから、エルサレムの教会を助けるためにささげなさい、とパウロは訴えるのです。クリスマスの出来事があったから、あなたたちは助けられたのではないか、それならばあなたたちも困難な中にあるエルサレムの教会を助けるべきだ、と言うのがパウロの主張なのです。

 私たちは、主イエスが貧しくなられたということが、いったいどういうことなのかに目を向けなければなりません。クリスマスの三十年後にエルサレムに上った主イエスは、十字架につけられるのです。十字架につけられた主イエスは、私たちの罪と罪の結果として私たちが引き受けなければならない裁きを一身に背負ってくださったのです。そうして、私たちのために死んでくださったのです。
 私たちは、主イエスの貧しさによって、豊かにされました。あのクリスマス以来、主イエスが、いつも私たちと共にいてくださるのです。共にいてくださる主イエスによって、私たちの罪とその結果引き受けなければならないはずだった裁きを、そして私たちを捕らえて離さない悩みや苦難を、すべて主イエスがご自分の肩に担ってくださったのです。まさしく命がけで、主イエスは私たちを救い出してくださったのです。
 飼葉おけに寝かされているのが、何で救いの「しるし」なのか、それは、飼葉おけだけを見ていては分かりません。主イエスが貧しくされた、それは、私たちを豊かにしてくださるためだったという、十字架の出来事を抜きにしては、クリスマスの喜びは語れないのです。
 私たちは、クリスマスによって始まった、神さまの命がけの救助活動によって、平安を与えられ、神の子とされ、希望を与えられています。それが、私たちに与えられた豊かさです。私たちに与えられた富です。私たちは豊かにされたことで、互いに受け入れ合うことができます。助け合うことができます。互いに助け合って、この世に神の栄光を表わすことができます。こうして、クリスマスの豊かさを共に生きることができるのです。(2010年12月20日降誕節主日礼拝説教より)

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  「隣人を愛せますか」
    レビ19:17~18、ルカによる福音書10章25~37
  「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」
  そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカによる福音書10章36~37)

  隣り人とは誰でしょうか。もちろんそれは自分の家族や友人、そして知人など、自分の身近にいる人たちのことです。アジアに住む人たちが隣り人だとスケールを大きく持っている人もいるかもしれません。いずれにしても、自分の身近に感じる人を隣り人といいます。ところが、ともすれば隣り人には身近にいてほしい人だけを選んでしまうことがあるのではないでしょうか。主イエスに質問をしたこの律法学者がそうでした。「わたしの隣り人とはだれのことですか」と、愛する人間を枠付けしたいのです。
 主イエスはたとえ話で隣り人を愛することがどういうことかを示します。
☆三人の隣人候補
 祭司とレビ人は、追いはぎに襲われ半殺しにされて倒れている人を「向こう側を通って」見過ごしにします。祭司とレビ人は、神さまへの奉仕と隣人愛が実際に結びつきません。自分から切り離してし、見なかったことにして通り過ぎるのです。
 追いはぎに襲われたユダヤ人に本当に親切に尽くし愛したのはサマリア人です。ユダヤ人とは不仲だったのに助けます。サマリア人は、自分も強盗に襲われるかも知れないのに、危険な場所で立ち止まって、介抱をします。そして、倒れている人をロバにのせ、自分は歩きました。その上、宿屋に連れていき、宿屋の主人に頼み込んで泊めてもらいます。さらに、2日分の労賃であるデナリオン銀貨二枚を渡して、費用がよけいにかかったら、帰りに払うと言います。
☆隣人愛とは何か
 このたとえ話で示されている隣人愛とは、いったいどんな愛でしょうか。
 それは、隣りにいてほしくない人をも愛する愛です。 隣人愛というのは、自分が損をしてもかまわないという愛です。自分が追いはぎに襲われるかも知れないのに倒れている人を助け起こし介抱します。そして自分も疲れているはずなのに、病人をロバに乗せて自分は歩くのです。旅の途中で急いでいるはずなのに、宿屋にもつれていき、治療費も出します。
 そして隣人愛は、「隣り人になる」愛です。「隣り人である」ことはできるかもしれません。自分の隣りに愛する人がいればいいのですから。でも、隣り人となることは、時には敵を愛さなければなりませんし、自分が損をしなければなりません。つまり私たちが隣り人になろうとするとき、それは自分を変えなければできないのです。
 そう考えると、私たちがサマリア人のようになろうとしても、なかなかなれません。愛したくない人を愛そうとしても、そこには無理があるのです。それならばなぜ、主イエスはこのたとえを話されたのでしょうか。
 それは、私たちこそが傷ついて倒れているからです。この世界で生きることの苦しみや悲しみの中で傷つけられ倒れているのです。あるいは、助けなければいけない人を助けることができずに見過ごしにしてしまう、という後ろめたさや罪意識を抱えているのです。人を傷つけ、躓きを与えてしまう自分の罪深さに押し潰されてうずくまっているのです。
 だから私たちは、この例え話から、そんな私たちのためにサマリア人になってくださった方を見つけだす必要があります。傷ついて倒れている私たちを本当にやさしく、そして自分の命をささげて助け出してくださったお方を見つけだすことが、このたとえで語られているのです。
☆はらわたが裂かれる憐れみ
 サマリア人が示した「憐れみ」、聖書が語る「憐れみ」という言葉は「腸(はらわた)」という字からできた言葉です。それこそ、「腸を裂かれるような思いを持ってあわれむ」のです。そうです、文字通りに、十字架の上で腸を裂かれ、血を流されたお方こそがこのサマリア人が示した憐れみの思いを言い表しているのです。十字架の上ではらわたを裂かれ、血を流された方は誰でしょうか。それは主イエス・キリストです。
 主イエスが私たちの隣り人になって下さったのです。主の愛に応えることができないばかりか、すぐに主の愛に背いてしまう私たちなのに、少しも愛しがいのない私たちなのに、主イエスが私たちの隣り人になって下さり、私たちを愛してくださったのです。私たちは、主イエスが私の隣り人になって下さったということを、このたとえから知り、感謝することができるのです。私たちが主イエスに愛され助け起こされたから、私たちも傷ついている人の傍らに立つことができるようになるのです。こんな私の隣り人に主イエスがなってくださったという、救われた喜びと、そして感謝の思いが、隣り人を愛する愛となるのです。 (2009年10月25日、特別伝道礼拝説教より)

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   「十字架の背負い方」
    詩編55:23、マタイによる福音書16:21-28
  「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイによる福音書16:24-25)

 ペトロは正しく主が何者であるかを言い表しました。自分たちにとって主がどういうお方であるかを「あなたこそメシア・キリストです」という言葉で告白しました。そんなペトロも、自分の思いが勝ったときに主イエスの十字架の前に立ちはだかろうとします。
 しかし主イエスは、そんなペトロに「サタン、引き下がれ」とおっしゃいます。人間の思いが勝ってしまうペトロに、「後ろに従いなさい」と言っているのです。なぜならば、主に従うと、主の十字架への道が神の御心であるということが分かるからです。「あの十字架の上で死なれ、三日目によみがえられた方こそ私たちすべての者の救い主・キリストである」と、はっきりと告白できるようになるからです。

 「自分を捨て、自分の十字架を負う」ということは、言葉では簡単なようですが、実際になかなかできるものではありません。神さまを第一として、福音のために生きる献身の生活を送ることは、並大抵のことではありません。いったい私たちは、十字架をどうやって背負えばよいのでしょうか。
それは十字架を背負われた方に従うことです。私たちに代わって、十字架を負って下さった主についていくことが自分の十字架を背負うことになるのです。もちろん、主イエスが背負われた十字架を私たちが背負うことなどできません。しかし、私たちには自分でしか背負えない十字架が与えられているのです。十字架を背負うことについて、こう言った人がいます。
 「『自分の十字架を負うて』という言葉は恵みの言葉である。みんなそれぞれの力に合わせて、自分にふさわしい仕方で十字架を負うことを、主は定めていて下さる。なぜ、ここでうろたえるのか」
 私たちに負いきれない十字架など与えられてはいません。私たちが背負いきれない十字架は、主が私たちに代わって背負って下さったのです。だから、主に従うのです。十字架への道を歩まれた主に従うことが、おのずから自分の十字架を背負うことになるのです。そしてまた、主の後ろについて行き従うときに、自分を捨てること、主イエス・キリストにすべてをお任せすることになるのです。そのように主に従うことが、福音に生きることなのです。

 ペトロは何度も躓きました。主の十字架に躓き、迫害の中で躓きました。しかしペトロはそのたび主に立ち返り、主のうしろに従い直します。ペトロには、主イエスが背負われた十字架によって自分が生かされていることが、信じられたからです。
 自分を捨て、自分の十字架を負って主に従うときに、私たちの前には真っ直ぐな道が開けます。私たちの前には主イエスがいて下さいます。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)とおっしゃっる主イエス・キリストに従うことが、十字架を背負うことです。主イエス・キリストの備えられた道を真っ直ぐに歩むときに、私たちはまことの命を得ることができるのです。(2009年3月1日、主日礼拝説教より)

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「助け主が来る」
   ヨエル書2章27~3章1、ヨハネによる福音書16章4~15
 その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げる。   (ヨハネによる福音書16章13)

 この礼拝を終える時、私たちは神さまから与えられ遣わされているそれぞれの人生の馳せ場に、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」と祝祷で送り出されます。父と子と聖霊の名によって祈られるときに、そして洗礼が授けられるときに、神さまの命の神秘とも言えるものの中に、私たちの身を置くことができるのです。そのことを私たちは体験いたします。

 主イエスは世の終わりに再び帰ってくることを約束して天に昇ります。しかし、いつ来るのか誰にも分からない世の終わりまで、弟子たちが不安なく過ごせるかというとそうではないでしょう。しかし、たとえ弟子たちが不安に感じたとしても、主イエスが天に昇っていった方が弟子たちのためだというのです。それは、「弁護者」(口語訳聖書では「助け主」)が弟子たちの所に来るからです。この「弁護者」を主イエスは、「真理の霊」と呼んでいます。ところでこの「弁護者」「真理の霊」とは、いったい何のことでしょうか。
 いうまでもなく、この「弁護者」「真理の霊」とは聖霊のこと、聖霊なる神のことです。私たちの肉眼では、主イエスを見ることは出来ません。しかしこの「弁護者」「真理の霊」こそが、主イエス・キリストはどんなお方であるか、そして主イエスをお遣わしになった父なる神さまはどんなお方であるのかを、私たちに証ししてくださるのです。
 そしてこの「弁護者」「真理の霊」は私たちを真理へと導きます。もちろん、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と言っても、どんな学問や文化の真理に到達するときにも聖霊の導きがあるのだ、などということではありません。科学的な「真理」とか、哲学者が追い求める「真理」とは違います。
 「真理」とは、「わたしは道であり、真理であり、命である」と語られたその主イエスの「真理」です。主イエスが命を賭けて、私たちを愛し抜いてくださったその真実、父なる神さまがひとり子を世に与えてくださるほどにこの世を愛してくださったその真実が真理なのです。この熱情の神さまの「真理」を、聖霊が私たちに迫って来て証しするのです。これこそが今日祝う「聖霊降臨」の恵みなのです。
 私たちの誰もが、主イエスの姿を生で見ていないですし、主イエスの声を生で聞いていません。しかし、私たちは孤独ではありません。聖霊なる神さまが、私たちに主イエスのみ姿をはっきり示し、主イエスの御言葉をはっきりと語りかけてくださるからです。それだから、私たちは肉眼で神を見られなくても、助け主である聖霊によって信じることができるのです。信仰を告白したものが受けた洗礼も、この聖餐の食卓も、聖霊なる神さまが私たちを主イエスのみ体に結びつけて、主イエスの十字架と復活の御業を味わわせてくださるのです。だから私たちは安心していられるのです。  (2009年5月31日 聖霊降臨日主日礼拝説教より)
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  「人生の起点

エゼキエル書36:25~28 、ローマの信徒への手紙6章1~14
「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ローマ6章4~5)

 私たちは、時に道に迷うことがあります。そんなときは、もう一度初めの地点に戻るということが、結局早く目的地に着くことができることになるでしょう。キリスト者の生活も同じです。迷ったときには初めの地点に戻るのです。キリスト者にとっての最初の地点とは、私たちは洗礼を受けてキリストのからだに結びつけられたのだ、という地点です。
☆水が象徴する死と命
 洗礼式の水が象徴しているのは、水の中に沈められ死ぬことです。罪のからだを水に沈めることに罪人としての「古い自分」を葬るのです。「古い自分」は、キリストを信じない「古い自分」です。それは、「罪に支配された」ともパウロは語っています。したがって、もはや「罪の奴隷」ではなくなるのです。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼」を私たちが受けることによって、私たちは、キリストと共に死にます。しかし、主イエス・キリストが罪のための死や滅びを引き受けてくださるから、罪から解放されるのです。
 しかし、洗礼の水は死ぬことだけでなく、命と結びついています。なぜならば、私たちは水がなければ生きられないからです。「命の水」という言い方をいたします水は命に欠かせないものなのです。そして、「キリスト・イエスに結ばれるための洗礼」の水も、私たちが生きる命と結びついているのです。
 「あずかる」というのは、「中に入る」ことです。キリストに結びついて一体となることです。そして、洗礼によって水の中から立ち上がることは、キリストと共に新しい命に生きることです。キリストに結びついて「その死の姿にあやかるならば」キリストの「その復活の姿にもあやかれるで」のです。そしてそれは、「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」のです。神さまに対して生きているのならば、それは本当に生きているということです。神さまが生きて良い、と言ってくださる人生です。神さまが、救いを保証してくださる命を生きるのです。死と滅びが待っている人生を生きるのではなく、神さまの御心によって、「あなたは生きて良いのだ」と言ってくださる人生を生き続けるのです。

 ところで、主イエス・キリストに結びついて命に生きる人生とは、いったいどのような人生でしょうか。もちろん、洗礼を受けたからといって、決して、苦労がなくなるわけではありません。洗礼を受けた後も、さまざまな苦労が私たちを襲ってくるのです。しかし、苦労の意味は違ってくるのです。パウロが、「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っている」(Ⅰコリント15:58)と語っているとおりです。キリストにあって、キリストに結びつけられているのならば、苦労が無駄ではなくなるのです。苦労が一つして無駄にはならない人生を、洗礼は約束しています。だから私たちは、一日を始めるときに、「きょうも苦労があっていやだな」と思って一日を始める必要はないのです。私たちは、「私たちの苦労が一つとして無駄にはならない一日が始まるんだ」と信じて一日を始められるのです。なぜならば、私たちは主イエス・キリストと一体となって、命に生きる人生が確かに保証されているからです。
 表面的には、洗礼を受けている人と受けていない人との違いはないかもしれません。しかし、その奥底においては、はっきりとした違いがあるのです。キリストと結びつけられていて、キリストと共に死に、キリストと共に生かされているのだ、という洗礼の事実においてです。だから、私たちは、自分の行き先が分からなくなるとき、自分が孤独に陥っているとき、無駄な苦労ばかりしていると思えるとき、自信を失ったとき、病気の時に、思い起こすことができるのです。「私は洗礼を受けているんだ」と。何か新しいことを始めるときにその出発の日に、思い起こすことができるのです。「私は洗礼を受けているんだ」。それは始めるときだけではありません。仕事の終わりに、一日の終わりに、そして人生の終わりに、「私は洗礼を受けているのだ」と。キリストのからだと結びつけられていて、キリストと共に死に、キリストと共に生かされているのだ、ということを思い起こすことができるのです。(2009年4月12日 主日礼拝説教より)

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「神に知られている私」
   創世記39章21~23、ガラテヤの信徒への手紙4章8~11
  「あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」 (ガラテヤ4章8)

 ヤコブの息子ヨセフは、奴隷として売られたエジプトで青年時代の10年あまりを牢獄の中で過ごさなければならなくなります。周りの嫉妬や悪意のためにヨセフは人生を弄ばれてしまうのです。そんな家族からも誰からも忘れ去られるような孤独な牢獄生活の中でも、ヨセフが生き抜くことができたのは、「主がヨセフと共におられ」(創世記39:2.21.23)たからだと聖書は繰り返し語ります。主が共にいて下さる、主が共にいて、私のことを知っていてくださる、これほど確かなことはありません。
 私たちは、自分らしさを見つけて確かなものにしていくという「自我の確立」を求めますが、聖書は、「神から知られている」ことこそが。キリスト教的な「自我の確立」だと語ります。つまり、神を知っていることではなく、私たちが神から知られているということこそ大切だと語るのです。
 神は、主イエス・キリストのまなざしを通して、神は私たちを見、私たちを知っていてくださいます。主イエスのまなざしとは、十字架の上で私たちを赦してくださったまなざしです。私たちに過剰な期待をするわけでもなく、私たちを軽蔑するわけでもなく、赦しをもって私たちを見ていてくださるまなざしです。
 今日の御言葉の直前には、「律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(4:6)と語られています。つまり、私たちが神の子とされているのです。もちろん、ありのままの私たちは神の子と呼ばれる資格などありません。しかし、御子イエス・キリストによって、神の子とされた、御子の赦しによって神の子と扱われているのです。
 したがって、神が私たちを知っているというのは、神御自身の子として私たちを知っていてくださるのですから、世間の目からも、自分自身の思いこみからも自由になれるのです。
 神が共にいて、神が知っていてくださることを信じられたヨセフはどうだったか。一緒に牢獄につながれている囚人たちが不思議な夢を見て顔を曇らせていることに気づいて、「今日は、どうしてそんなに憂うつな顔をしているのですか」(創世記40:7)と声をかけます。神が共にいて、神が知っていてくださることを信じられたヨセフは、他人のことを知ることができたのです。
 いったい私たちは、家族の顔色の違いに気づかずにいたことはないでしょうか。教会の兄弟姉妹が、きょう顔色が悪いことを見過ごしにしていることはないでしょうか。私たちの友人たちが顔を曇らせていることに気づいたでしょうか。「神に知られている私」がいるということは、他人のことはどうでもありません。「神に知られている私」は、隣人も「神に知られている」ことを知っている人です。たとえその人がまだ神のことを知らなくても、神には知られているのです。つまり、神に愛されている人なのです。
 こうして礼拝をしている私たちは、まさに「神に知られている私」です。そして、「神に知られている私」同士、兄弟姉妹のことに心を配ることができます。さらに、助けを必要としている隣人、神を知らない隣人のことをも思うことができます。「神に知られている私」であるということを知った私たちは、豊かで自由な交わりの中に生きることができます。
                                            (2009年3月15日主日礼拝説教より)
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「主の道の歩き方」
   士師記2章6~23節、コリント一 10章13節
  「彼らは自分たちをエジプトの地から導き出した先祖の神、主を捨て、他の神々、周囲の国の神々に従い、これにひれ伏して、主を怒らせた。」 (士師記2章12)

 聖書は神の前での人間の姿を、写し出します。実は神を本当には畏れていない。神に対して本気で服従する気がない。それが、私たち人間の正体だということを語ります。神の前での私たちの姿は、神の怒りの中でしか語れないというのです。怒る神は、私たち人間にとって決してやさしい神ではありません。
 そうすると、聖書は、矛盾することを言っているのでしょうか。人間の罪を赦し義とする神の救いと、人間を試みにあわせる神の怒りが、一人の神から同時に出てくるからです。しかし、この矛盾の中に真実がひそんでいるのです。
 人間が神の怒りを受けるのは、神の存在を知り、神の支配を知りながら、真実に神を神として礼拝していないからです。神を最後の切り札くらいにしか思っていないから、私たちはすぐに神を忘れてしまいます。永遠に生きておられる神を、季節ごとに登場させるバアル並みの神にさえ、引きずり下ろしてしまいます。イスラエルの民だけでなく、人間の不信仰は、唯一の神を神として認めないことです。また人間の不義は、神によって創られた人間であることを認めない罪のことを言っています。したがって、神が怒ることは、決して不当なことではありません。
 しかし、そんな罪深い私たちに、神は、ご自分が神であり、いつも働いていることを明らかにされます。
 かつて神は、士師を送って、「彼らを略奪者の手から救い出され」ました。ギデオンやサムソンなどの士師は、イスラエルの民を圧迫する者から救う指導者です。神は、これらの士師を通して、御自身が、いつも共にいること、生きて働いておられることを示されます。
 しかし、士師たちがいる間は、神を信じ、礼拝していた者たちも、士師が死ぬと神を捨ててしまいます。モーセの後継者であるヨシュアがイスラエルの指導者として立てられていたときに信じて礼拝していたのに、ヨシュアたちが死ぬと神を捨てた、その同じことを繰り返します。それでも神は、イスラエルの民と共におられるのです。御自身に背かれるイスラエルの民に怒りながら、神は民を見捨てられません。士師を立てて、そして預言者を立てて御自身から背かれる民が、神に立ち帰るように導き、忍耐強く待っておられるのです。
 士師や預言者を通して、主が生きておられることを示された神は、ついには、神はご自身を啓示されるのです。それは御子イエス・キリストを通してです。そして、御子によって送られる聖霊の働きを通してご自身を明らかにされました。
 私たちは神を見ることはできません。しかし、神は天地を創造されて今も後も世界を治めておられます。そして神によって創られた者の心の目を通して、ご自身をあらわしてこられました。だから「神などいない」と言い張ることはできません。神は、ご自身が創造された自然を通して、さまざまな御業を通して、ご自身をあらわしてこられました。しかし、イエス・キリストの福音の中に明らかにされた神の救いを信じることによらなければ、人間は神を正しく理解することはできないのです。
宗教改革者ルターは、神の怒りについて語ります。「神の怒りとは何か。実に私たち罪人には、本当にはわからないのではないか。それは、人間には秘められた不思議な御業である」と。そしてルターは、「神の怒りとは、人間の理解を超えている。しかし、不思議な事に、神の怒りによっても、私たちは救われている」とさえ語るのです。
 私たちは、さまざまな試みの中で、神を見失い、神に背いてしまうことがあります。そのことを神は決して見逃したりはしません。見て見ぬふりはなさらないのです。しかし、怒りの中でも、私たちを救おうとされます。だから、私たちはどのような試みの中でも神を信頼していればいいのです。
           (2008年8月24日 主日礼拝説教より)

         
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「主を呼ぶ声」

   マラキ書3章19~20節、マタイによる福音書3章1~12節
      「「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(マタイ3章3節)
 「悔い改めよ。天の国は近づいた」
 ヨハネは、間近に迫った救い主の到来のために、悔い改めを迫りました。悔い改めは、主を迎える備えです。救い主を迎えるために備えることは、人間の心の中だけで簡単に起こるのではありません。大工事が必要なのです。悔い改めの大工事は神さまと人間との関係が変わって起こることです。悔い改めは神さまに向かうこと、神さまに向かうことで古い自分が死んで、新しい自分に生まれ変わることです。そのようにして、神さまに帰ることなのです。神さまに背を向けていた人間が、向き直って神さまに帰ること、立ち帰ること、それが悔い改めなのです。決して簡単ではない大工事なのです。
 ただ偽善的に律法を守っていれば良いと思っていたファリサイ人や神殿の特権集団であるサドカイ人もヨハネのバプテスマを受けに来るのです。それほど多くの人々がヨハネの元に来たのです。しかしヨハネは、ファリサイ人やサドカイ人たちが悔い改めにふさわしい実を持たないことを見破るのです。そしてヨハネは、根本的に立ち帰ることなど考えていなかったこのユダヤ人たちに対して、厳しく悔い改めを迫りました。
 ヨハネが「悔い改めよ」と言っているのは、「自分は、アブラハムの子孫だなどと言ってうぬぼれてしまっている心を砕きなさい。自分は全く無力で、罪深いことを率直に認めなさい」言っているのです。
 まさしく、ヨハネは悔い改めに生きた人でした。エルサレムとユダヤ全土から、さらにヨルダン川添いの地方一帯から、人々が続々とヨハネのもとに集まってきても、少しも得意になることはありません。宗教的なエリート集団であるといえるパリサイ人やサドカイ人たちが来ても、少しも自らを誇ることはしないのです。むしろ、かえって低くなるのです。
 「後から来る方は、自分がその履物をお脱がせする値打ちもないほど優れた方」だ。と自分と後から来られるお方との違いを明らかにするのです。主イエスがヨハネのことを「預言者以上の預言者」とあとになって言われるほどの優れた預言者でありながら、ヨハネは、「荒れ野で呼ぶ者の声」で満足するのです。すぐ後に来たりたもう御方を指さすことで満足するのです。自分は主イエスを指さす指になりきるのです。
 そうです。ヨハネ自身が悔い改めにふさわしい実の結び方を示すのです。悔い改めにふさわしい実は、心を砕いて、ただ神にのみ信頼をおく、そして最後に来られる方を指さすものとなる。それが「悔い改めにふさわしい実」なのです。ヨルダン川の河原に転がっている石ころからでも、アブラハムの子孫を造り出す神さまに、麦と殻を選り分けてくださる神さまに信頼をおいて、石のような固い心を神さまに委ねればいいのです。
 わたしたちは、神さまにすべてを委ねて、「主よ来てください」と祈ることができるのです。わたしたちは、今まさに来たらんとする主を指さす指となることが、主を呼ぶ声となることが許されているのです。最後に来られる方を指さし、最後に来られる方を呼ぶ、最後から2番目になることが許されているのです。
(2008年1月6日  主日礼拝説教より)
         
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「発見」
   ルカによる福音書19章1~10節
      「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19章9~10節)

 これは行方不明になっていた人が発見された喜びの物語です。誰もがその行方を見失っていた人が主イエス・キリストによって発見されました。「今日、救いがこの家を訪れた」。この言葉が高らかに響いた時に、行方不明になっていた人は確かに発見されたのです。
男の名前はザアカイ。エリコの町の誰もが知っていながら、みんなが頭の中から消し去りたいと思っている名前です。その名前を主イエスはご存じで、うっそうと茂った木の中にいる男を見つけだして声をかけます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい」と。さらに、「きょうは、あなたの家に泊まりたい」と主イエスはおっしゃいます。よりによって、エリコの町で一番嫌われている者の家に泊まるというのですから、町の人々はさぞかし驚いたことでしょう。そして何よりも、ザアカイ自身が驚いたことでしょう。思いがけない喜びの言葉にザアカイは木から急いで降りて、自分の家に主イエスを迎え入れます。
 この時、主イエスは、「ぜひ泊まりたい」「泊まらなければならない」と、ザアカイの家に泊まることを切望します。むしろ主イエスは、ザアカイを見つけだし、ザアカイの家に泊まるためにエリコの町に来たと言ってもいいのです。なぜ、それほどまでに主イエスはザアカイの家に泊まろうとしたのでしょうか。それは、「失われたものを捜して救うため」です。このザアカイが、最も「失われた者」だと主イエスはおっしゃいます。このザアカイを捜し出して救おうとする、それが主イエスの御心です。
 「泊まる」という言葉は、聖書が書かれた元の言葉では、「とどまる」「つながる」ことと同じ言葉です。主イエスがザアカイの家に泊まった時、ザアカイの心に主イエスがとどまってくださり、ザアカイは主イエスにつなげられたのです。うつろなザアカイの心を主イエス御自身が満たしてくださって、主イエスに連なる者としてくださったのです。
主イエスに捜し出されたザアカイは、自分に不正があったならば、四倍にして返すと約束します。律法の規定では、不正を行った場合に償うためには、せいぜい五分の一加えればいいのに、なぜそんな償いをしようとしたのでしょうか。それは、ザアカイが、金儲けのために生きる生き方からは解放され、全く自由にされたからです。これまで自分の腹を肥らせることしか考えていなかったザアカイの目が、自由にされて、今度は貧しい人たちに向けられます。隣り人など持つこともなかったし、誰もザアカイの隣り人になろうとはしませんでした。主イエスがザアカイの家に泊まり、隣り人となった下さったことを知った時に、ザアカイは自分の隣り人を意識します。これまで、人を愛することなど考えたことがなかった男が、主イエスの愛を知った時に、隣り人を愛することを知ったのです。
 「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」ザアカイはアブラハムの子、選ばれた神の民でしたが、神に背き、神の民であったことを捨て去っていました。その神に背いていた罪人が、神によって発見され、神の民の列に連れ戻されたのです。したがって、ザアカイは心を入れ替えて回心したから、救われたのではありません。むしろ、救い主が罪人の方に向き直ってくださり、ザアカイの前に来てくださったのです。
 「失われたものを捜して救う」、この主イエスの愛は十字架の出来事によって頂点に達します。十字架の上で示された深い愛によって、主イエス・キリストは私たちをも訪ねだしてくださり、救って下さったのです。だから、「きょう、救がこの家を訪れた」という言葉は、ザアカイだけでなく、私たちにも向けて語られた言葉です。だから、この物語は、私たちにとっても喜びの物語です。
          (2007年10月14日 主日礼拝説教より)
         
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「永遠の命の水」
  イザヤ49章7~10節、ヨハネによる福音書4章1~15節
      「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
      わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4章13~14節)

 主イエス・キリストは、ユダヤからガリラヤへ行かれるときに、サマリアを通りました。ユダヤとガリラヤに挟まれるようなサマリアを通るのは不思議ではありませんが、ユダヤ人はサマリアを普通は通らないのです。それは、ユダヤ人は、サマリア人を嫌っていて交際していなかったからです。ここで記される「交際」という言葉は、一つの品物を共に用いる、という意味の言葉です。したがってサマリアの女が、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず」と主イエスに言っているのは、ユダヤ人がサマリア人の持ちものを水くみに使うことなどは、あり得なかったことを現しています。汚れた民の物を使うと自分も汚れてしまうと考えたユダヤ人がサマリア人の物使うことは決してなかったのです。
 しかし、主はサマリアを通る道を選ばれるのです。それは、真の礼拝のおとずれを告げるためです。そして、シカルで一人の女性と出会うためでした。
 そうです。「しかし、サマリアを通らねばならなかった」と、主はサマリアを通る道をあえて選ばれるのです。それは、命の水を必要としているこんな女性がいることを知っておられた主イエスだから、「サマリアを通らねばならなかった」のです。そして、誰も歩く者がいない炎天下の真っ昼間に、シカルという町のヤコブの井戸に来なければならなかったのです。それはすべて、この一人の女性に会うためでした。そして、このサマリアの女の魂を満たす「生きた水」を与えるためだったのです。ですから主イエスは、「私に水を飲ませて下さい」という問いかけから、サマリアの女との会話を始められたのです。主イエスこそ、ほんとうの命の水を与えてくださるお方であることを気づかせるためです。この後を読んでいくと、サマリアの女は街に出て行って、主の御業を証しします。人目を忍んで水くみにこざるを得なかった女性が自分から町の人々の前に出て、「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と人々に伝える者となるのです。そうして、サマリアの町にも主を信じるものが起こされていくのです。

 十字架の上で私たちの悩みや痛みや苦しみを、私たちの罪を一身に背負ってくださった主イエス・キリストが今私たちに訪れてくださっているのです。その主イエスを信じる者は、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」という救いの出来事を体験でき、救われた喜びに生きることができるのです。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と、願い出たサマリアの女が、「生きた命の水」によって、渇ききった生活から永遠の潤いを与えられたようにです。そうして主イエス・キリストを証しする者に変えられたようにです。
 主イエスは、魂の渇きを癒すために、渇くことのない「生きた命の水」を与えてくださいます。それもわざわざ主イエスの方から出向いてくださって、罪深いこの私のために、命の言葉を語りかけてくださるのです。だから私たちは、素直に聴けばいいのです。私たちの命の源が私たちを招いてくださっているのですから。私たちにも永遠の命に至る水、生きた水が与えられ、永遠の命に生きる道を歩み始めることができるのです。
 (2007年7月29日 主日礼拝説教より)
         
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「ほんとうの知恵」
  列王紀上3章4~14節、コリント一 14章15節

      「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」
(列王紀上3章9節)

 ある日、イスラエルの王ソロモンの前に二人の遊女が現れます。遊女という社会で最も低い身分にあった者が、なぜ王の前に出ることになったのか聖書は詳しく説明しません。きっと、町の裁判所ではうまく裁くことができずに、最高裁長官も兼ねる王の前に進み出ることになったのでしょう。だれもが判断できなかったもめ事(3:17-22)とはこういうものでした。
二人だけで共同生活をしていた遊女が同じ時期に赤ちゃんを産んだと言います。しかし、片方の赤ちゃんが寝ている間に死んだのです。二人の遊女がどちらも、「生きているのが私の子供で、死んだ方が同居人の子供だ」と主張するのです。どちらが生きている赤ちゃんの親なのでしょうか。現代ならばDNA鑑定をしてほんとうの親が誰かがはっきりと分かります。しかし、ソロモンの時代は医学的に証明するすべはありません。そして、人目を避けて暮らしていた遊女ですから、証人として証明する者もいないのです。全くの二人だけですから、だれもがうまく裁けませんでした。
 その時です。ソロモンは家来にこう言いました。「剣を持って来るように。生きている子を二つに裂き、一人に半分を、もう一人に他の半分を与えよ」(3:24、25)と。
 家来が赤ちゅんを前に刀を振り上げた瞬間。一方の女が「その子を哀れに思うあまり」こう叫びます。「王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください」。しかし、もう一人の女は、「この子をわたしのものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください」と言うのです。
 その二人の叫びを聴いたソロモンは、「この子を生かしたまま、さきの女に与えよ。この子を殺してはならない。その女がこの子の母である」と、裁きをくだします。
 「その子を哀れに思うあまり」という言葉は、聖書が書かれた元の言葉で文字通りに読むと「彼女の胎が焼けるようになって」です。赤ちゃんの命乞いをした女の方が、赤ちゃんを産むためにお腹を痛めた実の母親だとソロモンは見抜くのです。
 イスラエルの人たちは皆、ソロモンが持つ知恵に驚きました。そしてこの知恵が、神さまによってソロモンに与えられたものだということを知って神さまを恐れるのです。ソロモンは、真実の知恵を持った王さまだったのです。ほんとうの知恵は、ほんとうの知識は、神さまを恐れること、つまり神さまを信じ礼拝することによって神さまから与えられることを知っていたのです。だからソロモンは、箴言で、「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)と語り、「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」(箴言19:21)と語っているのです。ほんとうの知恵は、神さまを信じるところにしか生まれないことをソロモン自身がほんとうに身にしみて分かっていたのです。
 ソロモンの裁きは、海を越え、時代を超えて伝わるほどの知恵だと言えるでしょう(大政談の中にも似たものがある)。しかし、このソロモンに与えられた知恵は、世渡りのために与えられる知恵とは違います。神さまの御心を知る知恵です。神さまの御心に聴き従う知恵なのです。もし、知恵を与えられた者が神さまを見失ってしまったならば、知恵はかえって滅びの道を加速させる力になってしまいます。そのことはイスラエルの歴史が示しています。ソロモンは、神さまを見失った世界の空しさを「空の空、空の空、いっさいは空である」と「コヘレトの言葉(伝道の書)」に記しています。ソロモンが語ったとおりに、栄華を極めたイスラエルが、神さまを見失ったときに滅びてしまうのです。神さまを見失ったときに、国は分裂し、神殿は壊され人々は捕虜として遠い国で囚われの身となるのです。

 しかし、神さまは人間たちが滅びの道を突き進むことをお許しになりませんでした。ソロモンにまさる知恵を私たちに与えてくださったのです。ソロモンの末から、神の一人子を与えてくださったのです。主イエス・キリストによって神の正義がこの世に行われるということを私たちは知っています。この主イエス・キリストに信頼する、これにまさる知恵はないのです。聖書には私たちに与えられたほんとうの知恵である主イエス・キリストについて余すことなく語られています。だから私たちは、主イエス・キリストを信じ従えばいいのです。
                 (2007年5月13日 主日礼拝説教より)
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